ほんとうの意欲

 最近は病院で「認知症外来」も受け持っているのだが、ご家族からしばしばこのように相談を受ける。「仕事を辞めて以来、夫はずっと家でごろごろしている。何かをしてほしいんですけど。」

 そうして、何か趣味を見つけましょうとか、デイサービスに行きましょう、とかといって、「何かすること」を探す。そんなときに「何がしたいですか」と尋ねるが、「何もしたいと思わない」「何がしたいかわからない」などと返ってくることが多い。

 医学の教科書には、認知症の症状の一つに「意欲低下」と書かれている。しかしそれほど特殊なことだろうか。生きる支えとなっているような最も欲しているもの、それは伴侶だったり、成功だったり、金銭だったり、よい車だったり、旅行に行くことだったり、様々だろう。最も大事だと思ってたものが決して手に入らないとわかったら。手に入れたけれども満たされないものだと知ったら。それでも意欲は出てくるのだろうか。認知症に限らず、老いや病いの問題の根本には、これまで大事だと思っていたものが失われる、ということがある。それが意欲低下ということと関係しているように思われる。

 しかしそれは、「自分は何をほんとうに欲しているか」を知っているということが前提になっている。

近代人は、どちらかといえば、あまりにも多くの欲望をもっているように思われ、かれの唯一の問題は、自分がなにを欲しているかは知っているが、それを獲得することはできないということであるように思われる。われわれの全精力はわれわれの欲するものを獲得するために使われる。しかも大部分のひとは、この行為の前提、すなわちかれらが自分の本当の願望を知っているという前提を疑問に考えることはない。(エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』)

 老いや病いというと、欲したものが失われてゆく、という方にばかり注目しがちであるが、そもそも「自分は何をほんとうに欲しているのか」という前提に注目することは少ない。この考えたこともない、本当の願望という前提、「自分は何をほんとうに欲しているか」という問いを、老いや病いは突きつけてくるのではないだろうか。もう少し正確に言えば、「何かを欲してきた自分」を成り立たせているいのち自身が欲していること、と言うほうがよいのかもしれない。

 五行詩を綴る岩崎航《わたる》という方がおられる。三歳で筋ジストロフィーを発症し、徐々に症状が進行し立てなくなる。そして十七歳のとき、望むものは何も得られない、もう未来がない、と死を決意された。しかし、死にたいと思う自分の奥底にある生きたいという気持ちに気づいたといい、「たとえ何ものも/自らを/生きることの/芯までを/焼き尽くすことはできない」と綴られた。

 「自らを生きること」つまり自分自身を生きたい、自分が自分に帰りたい、そう欲する心は焼き尽くすことのできないということである。そんな彼の生き様は、いのち自身が欲していること、つまり「至心に信楽して我が国に生まれんと欲う」(真宗聖典十八頁)という本願のままに欲するということを確かめる、大事な手がかりを与えてくれているのではないか。

[『崇信』二〇一七年六月号(第五五八号)「病と生きる(22)」に掲載]