延命治療

 「私は胃瘻や人工呼吸器などの延命治療はしない」先日あるALSの患者さんはそう意思を示された。その決断は非常に重い。このように決断された方はこれまでにも少なくなかった。しかしその度に気になっていることがある。「延命治療」とはそもそも何を指すのだろうか。一般的には予後不良で根治の見込みがない場合に、ただ生命を維持するために行う治療のことをいう。そして、ただ徒《いたずら》に生命を長引かせることは苦痛を長引かせることになるから、という理由で延命治療をしないという選択をする場合がある。

 ここで疑問が生じる。何をもって「ただ徒に」つまり意味なく生命を長引かせている、と言えるのだろうか。延命治療という言葉を使うとき、「生きている意味がない生命」があるということを前提にしていることになる。

 例えば、苦痛ばかりの人生であれば意味がない、と考える場合がある。確かに痛みや嘔気、呼吸困難など身体的な苦痛が続くことは耐えがたいものがある。では、身体的苦痛ではない、別の行き詰まりならどうだろうか。様々な状況において人生に絶望し、「生きていることが苦痛でしかない」という考えに至った場合はどうだろうか。

 神経難病では、食事がとれない、呼吸ができない、などが問題となる。そのような状態に陥ったとき、栄養摂取のために胃瘻を増設したり、呼吸のために人工呼吸器を装着する。そのように生きることは意味がない、という考えをどう受け取るか。

 そこでよくいわれることに、本人の意思を尊重するべきだ、ということがある。かけがえのないその人だけの人生だから、自分の理性に基づいて判断した決定は尊重すべきだ、そしてその決定の責任は自分で負うべきだという。

 ではその理性は確かなものなのだろうか。近年緩和治療が発達し、身体的苦痛はかなり緩和できるようになった。痛みが強いときは「こんな状態で生きている意味がない」と考えても、緩和治療が功を奏すればその考えは変わるかもしれない。神経難病の人が、胃瘻や人工呼吸器の助けを借りて、旅行をしたり仕事をしたり、生き生きと生きている姿を見たとき、考えは変わるかもしれない。私の理性とは、あるときは「意味がない」と言い、あるときは「意味がある」と言うような揺れ動くものではないか。そのような理性で延命処置について決定したとき、その決定をした自分は責任主体となり得るのか。生きる意味を失った自分が、自分がした決定の責任を負う自己となり得るのか。

 本人の意思を尊重して、というのは本人の自由を尊重することでもあるといえる。では自分の主観や欲求に基づく決定は、本当に自由なのだろうか。自分のしたいことができない、苦悩から逃れたい、と言って苦悩から逃避して死を選ぶことは、苦悩から自由にならないままに、死への生として終えることにならないか。「人間としていかに生きるか」ということなしに、個人的な欲求に留まった場合、いのちの根源的な連帯を失ったまま孤立することにならないか。

 「苦悩から逃れたいという自分」に支配されず、快も不快も幸福も不幸もすべてが自己であると言えるか。人間として生まれてすべきことはもはや何もないと言えるか。延命治療の問題は、個人的な問題に留まらないような、同じく皆に投げかけれた問いとして向き合うことが求められているのではないか。

[『崇信』二〇一七年十月号(第五六二号)「病と生きる(26)」に掲載]