善意の暴力

 コミュニケーションがとれなくなる疾患は、ALSの他にも様々ある。脊髄小脳変性症《せきずいしょうのうへんせいしょう》(SCD)もその一つだ。その名の通り脊髄と小脳が変性する難病である。ALSと同じく、透明文字盤などを使用し意思疎通を図る。

 そのSCDの患者さんが入院されたときのことである。ご家族は大変熱心な方で、普段から介護に力を入れておられる。いつも診ている方ではないので、文字盤を使って会話するところを見せてもらうことにした。

 一文字ずつ根気よく読み取っていく。ところがなかなかうまくいかない。何文字か読み取るが、意味が通じない。「さっきの文字は間違いか」とのご家族の質問に、「はい」の意味で眼を長く閉じる。するとご家族が文字盤で頭を叩いた。SCDは、眼振《がんしん》が起こったり、眼球運動をスムーズにできなくなる。神経の症状でうまくできないことがあると説明しても、「ではなおさらがんばらなければならない」という。なんとか一つの文章ができるが意味が通じず、さらに頭を叩いたり、お腹を突いたりしながら、文字を読み取ろうとする。

 私はたまりかねて「そこまでする必要がありますか」と問いただした。するとご家族は「これぐらいやらなければできなくなる」と言い、(甘やかしてできなくなったらどうするのか)と言わんばかりに、逆に責められるような勢いで反論された。そして患者さんに向かって「できなくなったら終わりだからな」と言い放った。励ましているつもりなのだろうが、患者さんの眼は悲しそうに見えた。

慈悲に聖道《しょうどう》・浄土《じょうど》のかわりめあり。聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし。(『歎異抄』真宗聖典六二八頁)

 ご家族は「あわれみ、かなしみ、はぐくむ」という慈悲を実践しようとしているのだが、ほんとうに慈悲を徹底するとはどういうことかが問われる。SCDはご本人、ご家族の努力に関係なく進行する。今後さらにコミュニケーションは難しくなるだろう。「おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし」である。

 それでもできることをすべきだという意見もあるだろうが、そんな「自力作善」の立場がはらむ問題に目を向けなければならない。児玉曉洋先生は「歎異抄に聞く(13)—第四章—」(『崇信』一九八一年五月号)の中で、このように述べられる。「あわれむ心の中に自分の思いが主となっている限りは、あわれまれる者への意志の強制がはいるわけです。別の言葉で言えば、あわれむ者とあわれまれる者とが分離している。すると、あわれむ者の支配が、あわれまれる者に及ぶ」その構造が、聖道の慈悲は行き詰まるだけでは終わらず、暴力へと転換することを示す。しかも「善いことをしている」と信じて疑わない。

浄土の慈悲というは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈《だいじ》大悲《だいひ》心をもって、おもうがごとく衆生を利益《りやく》するをいうべきなり。(真宗聖典六二八頁)

 大慈大悲心に頭が下がらない立場では、「雑毒《ぞうどく》の善」を振りかざしては「こんなにあなたのためにがんばっているのに、なぜできないのか」と責め、目の前のあるがままのいのちを認めずに苛立ちを募らせる。いつの間にか、争うか見捨てるかの間で身動きがとれなくなっている。

[『崇信』二〇一七年十二月号(第五六四号)「病と生きる(28)」に掲載]

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