尊厳が損なわれるとき

 その日は少し呻き声が違った。お名前を呼びかけると、いつもより少し目を見開き、言葉にならない何かを話された。まさか意識状態が改善してきたかと少し期待し、続けて「調子はどうですか」と尋ねた。しかし私の声は、静かな病室に空しく響いただけであった。

 看護師が夕食を運んでくる。食事と言っても胃瘻に繋ぐ注入食である。流れ作業のように一言も話さずに繋いで他の部屋に行く。それを冷たいというかもしれないが、同じような人が大勢おられ、一人で幾人もの作業があるのだから仕方がないのかもしれない。何かを訴えてのばしたその右腕は手首から先が無い。頻繁に感染症を起こすため手術で取り除かれた。

 どう思われただろうか。このように描写すると、あたかも人間の尊厳性が失われたかのように見えるかもしれない。やはり延命処置など望まないと考える人も多いだろう。しかし胃瘻や切断手術が人間の尊厳を奪うのだろうか。この状況だけを切り取って見ない方がよい。

 この方が胃瘻を造ったとき、まだお話をされていた。わずかではあるが食事を口にしていた(胃瘻を造っても全く食べられなくなるわけではない)。まだ入院していなかった奥様が毎日お見舞いに来ていた。そこに日々の生活があった。そして徐々に口から食事が摂れなくなった。奥様は別の病院に入院された。次第に身体が固まり、手の指は手掌にめり込むぐらい堅く握りしめられ感染を繰り返した。家族は悩み抜いた末に切断手術に踏み切った。

 その決断の一つ一つに様々な思い、葛藤があった。本人の生きたいという願い、家族の生きて欲しいという願いがあった。そして現在がある。

 しかしその願いは有限である。孫の顔を見るまではと願えば、その願いかなわず命尽きれば志半ばで人生が終わる。死なれるのはさみしいという思いで家族が処置を決断しても、その後病院に預けたままで少しも顔を出さないということもある(批難しているのではなく、様々な事情で起こりうる)。そこに有限な願いの限界がある。そんな決断によって生かされたいのちが、たとえ苦悩に満ちていたとしても、どこで終わってもそこで完成であるといえる一日を生き切るためには、そんな有限な願いを超えて、どんな苦悩や悲しみにも寄り添い、どんないのちも輝いて欲しいと願う心が必要である。しかし現在の医療の中でその心は忘れられている。

 その手を使って生きてきたその人の歴史に耳を傾けずに、そして手を失った後の人生に思いを馳せずに、何の痛みも悲しみも無く、ただ医学的に管理しやすいという理由で切断されるのであれば、それはやはり人間の尊厳性を損ねると言えるだろう。

 しかし、そうではないような決断の可能性は残されている。状況に尊厳の有無があるのではなく、誰もが尊厳をもって見なくなったとき、尊厳が無くなるのではないのか。たとえ誰かの役に立たなくなっても、たとえ自らの思い半ばで命尽きることがあったとしても終わることのない、底に流れるいのちを見つめる眼差しがあることを信頼できるか。

 それは自らがその眼を手に入れるということではない。自分はやはり、そうは思えないような、自分の願いを超えられずに苦悩し、寝たきりの人を前にしてそれを忌避するような在り方でしかない。しかし、そうとしてしかいのちが生きられないことを悲しむ眼差しがあることを信頼する。最も人間らしい悲しみを照らし出し、共にいのちを育んできた歴史を信頼する。そういう信頼を確かめられる場所で、無意味に聞こえる呻き声が、いのちの叫びになるのではないか。

[『崇信』二〇一八年七月号(第五七一号)「病と生きる(35)」に掲載]

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