お念仏がでてこない

 このところ続けて臨終に立ち会った。先日も当直室に待機していると看護師から連絡が入った。聴診器とペンライトを持って病室に向かう。心停止、呼吸停止、瞳孔散大(対光反射消失)の三徴候を確認し、死亡時刻を告げる。最後に手を合わせ、お念仏を口にする。

 何度となく繰り返してきた光景であるが、思い返してみると、病室でお念仏を聞いたことはただの一度もない。医療者からは、安らかに亡くなってよかったとか、家族が間に合ってよかったとか、ある意味で死に方を評価するような言葉ばかり聞く。

 いのちを自分のものさしでしか見ることができないような生命観、生で始まって死で終わり何も無くなってしまうという生命観、そのようないのちの見方でしか死を受け止められない。無限の背景の中に成り立ついのちに触れることなく、その人の死が通り過ぎてしまうようなもどかしさがある。

 しかしそのことを歎く前に、先ほどお念仏申したときの私自身の心はどうであったか問わなければならない。昨日今日出会ったばかりでほとんど何も知らないその人の死を、私はどう受け止めたのか。死に立ち会ったといいながら、そもそも私はその人の死にほんとうに立ち会ったといえるのか。ただ目の前を通り過ぎただけではなかったか。もしそうであるならば、あのお念仏はいったい何だったのか。

 亡き人の人生を語るとき、しばしば、その人は人生に満足して死んでいったかどうかということをいう。この「満足」ということが、その人の個人的な欲求を満たすことを指すならば、それは他者には確かめようがない。親しみのない人の死であればなおさら想像のしようもない。勝手な妄想をして、生きている者の安心材料にしてしまうぐらいのものである。

 他者の死をかえがえのない一人の死として、尊敬の念を持って接しようとするとき、自分とは異なるが故に知り得ない何かを求めた者として見るならば、いったいどう敬えばよいのか。そこに自分も頷くことのできることがらがあるとすれば、やはり「人間として」というところでしかないのではないか。生き方はそれぞれ異なる。その異なるところは知ることができないが、人間を全うしようとした歩みであった。そこに人間として生きることの苦悩があった。

 人間が苦悩を乗り越えて一生を全うするということ自体が、無限の用きによって成り立つ。私のものさしにおさまるようなものではない。それをあらゆる苦悩を引き受けた法蔵菩薩のいのちとみるならば、それは称《たた》えるしかないことがらであり、また自分が生きることそのものでもある。

 「たとい我、仏を得んに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、我が名を称せずんば、正覚を取らじ。」 (『無量寿経』第十七願、真宗聖典一八頁)南無阿弥陀仏の心はすでに歴史の中にあり、それをそのままいただくしかない。ところが、自分の心が南無阿弥陀仏を意識し、いのちを見る手段としてしまう。その心が他者とのほんとうの出会いを妨げる。

 無量のいのちといっても、断見の反対側の常見であるならば、単に生で始まって死で終わるいのちの延長である。質的に異なるいのちとして無量寿というのであり、人間として生きることのあらゆる苦悩を超えんとする法蔵菩薩が、阿弥陀仏として成就したそのいのちが、私がこの限りある一生を生きるということと直接関係しなければならない。無限にはたらくいのちが、限りある私と関係する。そんな出会いの喜びの声とならないままにお念仏しているのではないか。

[『崇信』二〇一八年九月号(第五七三号)「病と生きる(37)」に掲載]