自由と平等の乖離

 認知症という病気は、患者さん自身の訴えは少なく、付き添いのご家族の訴えが多い。ご家族の心境として、運動の障害ならば心配というかたちで表れるが、同じ障害でも記憶の障害は心配ではなくしばしば怒りになる。

 先日も、家で大声で歌うのをどうにかしてほしいという相談があった。近所迷惑になるといくら言い聞かせても、すぐ忘れてまた始まるという。どうしても患者側の立場から、認知症を理解してほしいという思いがあるため、歌いたくなるときもあるでしょう、そうしたくなるような心に耳を傾けましょう、などとご家族に言う。すると「毎日聞かされる身にもなってください」「ご近所からも苦情がきているんです」と、先生は家族の苦悩をわかってくれないと、次々と苦労話が飛び出す。

 そこで、家族の苦悩にも耳を傾けなければと家族の側に立って、それは大変ですね、近所迷惑になるのはなんとかしないといけないですね、などという。すると今度は患者さんから、「自分の家なのに、気楽に歌うこともできない」「いつも迷惑がられて居場所がない」といって悲しそうにされるのである。

 家族の気持ちに寄り添おうとすることが患者を遠ざけ、患者に寄り添おうとすることが家族を遠ざける。どちらにも平等に寄り添うということはどうやって成り立つのだろうか。

 患者の「そのまま」を受け容れなければならない、という立場をとるとする。すると例えば、多少歌がうるさいからといって腹を立ててはいけない、もっと懐の深い人間になれという。お坊さんなら、歌をやめろというのはあなたの考えの押しつけであり我執である、何事もおまかせである、というかもしれない。患者の「こうありたい」という意欲を尊重するために、家族の「こうありたい」という意欲が押さえられる。

 一方、家族の苦悩を解決しなければならない、という立場をとるとしよう。話をしても忘れてしまうのだから、それは脳の働きの問題であり説得してどうにかなることではない、歌いたいという意欲を薬で押さえるしかない、といって鎮静作用のある薬を使う。そうすると歌うことがなくなり、近所に迷惑をかけることもなく、家族に平穏な生活が訪れる。家族の意欲を、患者の意欲を抑制することにより守ることになる。

 一方の立場がもう一方を支配し、意欲を抑制することにより、一方の自由が成り立つ。「なぜ自由と平等は乖離するのか。それはその自由が相対的自由であって根本的自由ではないからだということと、その平等が相対的平等であって絶対的平等ではないからだということなのです(中略)仏智と大悲(本願)の働く領域(浄土)においてこそ初めて現実を生きる根本的自由が一人一人の私の上に、あなたの上に実現してくる」(児玉曉洋「往生について」『崇信』)

 相対的自由を求める意欲と同時に、根本的自由を求める意欲まで否定しては、いつまでも支配被支配の関係のまま、それをありのままの在り方だとしてしまうことになる。しかし意欲と言うと、念仏者の立場からすぐ自力だといって批判するのを聞くことがある。他力とは意欲を否定することだろうか。それではまるで鎮静剤で意欲そのものを押さえてしまうようなものではないか。障りを功徳として新たな関係を創造しようする人たちをこそ念仏者というのではないか。

[『崇信』二〇一八年十二月号(第五七六号)「病と生きる(40)」に掲載]

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