喜びを支えるもの

 「苦しまないように最期を迎えられるようにしてください」介護施設から紹介され入院した、まもなく百歳になる女性のご家族の希望である。しかし現在とくに症状はない。ではなぜ入院したかといえば、食事が摂れなくなったからだという。

 入院したからには、病院としては、いかに食べられるようにするか、食べられないならば栄養を摂取する別の方法(胃瘻など)を検討することになる。しかし後者はご本人もご家族も望んでおられない。そこで主治医から、食べられないのは認知症による意欲低下の可能性はないか、投薬で改善できないかと相談を受けたのであった。

 年齢を考えれば、食事の量が減るのはある意味では自然である。薬を使うことに違和感を懐きつつ、お話しを聴きに伺った。ご本人の状態は、身体こそ自由はきかないが、会話はしっかりなさる。体調を尋ねると、「ご苦労なことで。私は別に何ともない。何もしてもらうことはないよ」とあまり構わないで欲しいと言わんばかりにそっけなく答えて、そっぽを向かれた。食欲について伺うと、そのまま宙に向かって「別に食欲がないわけではない。食べたいときに食べるので充分でしょう」という。その言葉に一応納得しつつ、投げやりな感じが気になった。しかし一度会っただけで心をひらいて話すということもないだろうと、その日の診察は終わった。

 主治医には薬は使わずに様子を見るよう伝えた。看護師は、食べたいだけ食べて、やりたいようにしてもらえばいいんじゃないか、といった。私は、その「やりたいように」がわからないから、「食事をして何をするか」がわからないから食がすすまないのであって、もっと奥にある問題に耳を開かないといけないのではないかと考えていた。

 ここまでのご本人、ご家族、看護師、医師のそれぞれの言葉にどこか空しさを感じていた。ご本人の心境は少しお話ししただけではなんとも言えないが、先が長くないんだからやりたいようにさせてほしいという態度でおられるように見える。看護師も基本的に同じ態度で、いずれも個人の欲望を満たすことに重きを置いているといえる。「苦しまないように」というご家族は身体的な快不快を問題にしている。医師も基本的に身体的なことを問題にしている。このように、関わっている人がご本人も含めて、「欲望を満たす、不快を避ける」ということしか話題にしないのである。もちろんそれを求めるのが当然であり否定できるものではないが、それだけなのか。欲望を満たす以外に生きる意味はないのか。その疑問が空しさのもとのようである。

 食思不振ということに関して、事例検討会で聞いたことを思い出した。入院当初は食べられなくても、食事介助しながらいろんなお話しをしていくうちに、あなたと一緒なら食べてみようかと言ってくれるようになった、という。食欲があるかどうかという身体的なことだけでなく、そこには食事の喜びを支えるものがある。食べてそして何を為すか、というよりは、そもそも食べるというその行為の中に、すでに喜びが表現されている。欲望を満たすということを超えて生きることを支えるものがはたらいている。

[『崇信』二〇一九年二月号(第五七八号)「病と生きる(42)」に掲載]

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