いのちは誰のものか

 先日放送されたNHKスペシャル「彼女は安楽死を選んだ」には大きな衝撃を受けた。神経難病の多系統萎縮症《たけいとういしゅくしょう》を患う方が、身体の機能を失って生きることに尊厳を見出せないと言い、「私が私であるうちに安楽死をほどこしてください」とスイスの安楽死団体に依頼。家族とともにスイスに渡り、医師が処方した致死薬の入った点滴のロックを自ら開放し、命を終えていく様子が放送された。本当に生きる道は無かったのか。もっと苦悩を共にする心に触れられたら、あるいは。悲しみや空しさ、憤り、様々な思いが起こる。

 この方は、同じ疾患の進行した人を見て安楽死を決意したという。では一体その人のいのちをどう見たのか。尊厳を失っていると見たのであれば、豊かな人生を送る多系統萎縮症の皆さんと日々接している私としては、大変悲しい。安楽死団体の医師は、条件を満たすかどうかは確かめるが、苦悩がどのようなものか聞く場面はない。ただ自己決定権があると言うのみである。ご自身も医師も苦悩する人間を価値の無いものと決めてかかっているように見える。あなたが自己だと思っているものは本当に自己なのか。どうしてもこの決断が正しいか間違いか、などと考えたくなる。

 しかし私が同じ状況に置かれたらどうするかはわからない。同じことを望むかもしれないし、どんな状況であっても生きていこうとするかもしれない。間違いだと責めることも、正しいと賛同することも、どちらの態度もこの方と苦悩を共にすることにならない。むしろそのような態度であふれる社会自体が、生きる道を閉ざしてしまったではないか。信じられないものばかりのなかで、何が本当のことなのか共に確かめる人がいないということがいかに不安か。だから是非を問う前に、尊厳とは何か、私が私であるとは、人間として生きるとはどういうことかという問いとして受け止めたい。

 「私が寝たきりで天井をずっと見つめていても、苦しがっている様子を見ても、生きてて欲しいって言いますか」と問いかける。「天井を見ながら毎日を過ごし、時々食事を与えられて、時々おむつを替えてもらい、果たしてそういう日々を毎日過ごしていて、それでも生の喜びを感じているのか、生きていたいと思っているか、自問自答する」という。難病に限らず人間として生きる上での普遍的な問いであり、まさに仏教の問題領域であるが、仏教者は番組に登場しない。

 同じ疾患で、胃瘻や人工呼吸器によって生きる道を選んだ方が並行して取り上げられていた。インタビュアーが「生きる支えは何ですか」と尋ねるとゆっくり文字盤で答えられた。家族との何気ない日常に喜びを感じる、と。ではその喜びを支えるものは何なのか。

 番組を見ながら「いのちは、それを愛そう、愛そうとしている者のものであって、それを傷つけよう、傷つけようとしている者のものではない」という信國淳先生の講話(新編信國淳選集『いのちは誰のものか』)が浮かんだ。

 それは同じ私の中にある二つの自己であるという。白鳥を射て我がものにしようとする提婆のように、自分を俎板《まないた》に乗せて生きる価値がないと殺しにかかる我と、その白鳥をたすけ無条件に愛する釈迦のように、どんな状況であってもいのちを愛そうとする我である。いのちはどちらの私のものか。提婆の我が、死を選んで、私が私としていのちを全うしたといえるのか。

 しかし信國先生は、我われ人間は、実は提婆でないものはないのであって、だからこそそこに苦悩が起こると話され、そしてそのために「必然的に、苦悩するいのちの自然な要請により、[いのちを]愛する釈迦というものが、私どもの内にどうしても現れなければならぬ」と述べられる。

 自分は常に釈迦の我であることができるとはいえないし、他者にもそうあるべきだともいえない。ただ「そうありたい」とおもいたつ心の起こるときがある。それは泥中の華のように苦悩の中から起こる。

[『崇信』二〇一九年七月号(第五八三号)「病と生きる(47)」に掲載]