見捨てられない場所

 「私は親の面倒を一生懸命みてきた。自分も娘にそうしてもらえると思ったら孫のことばかりで、私が困っていても助けてくれない。苦労して育てたのに。つまらん人生だった。」神経難病で入院中の女性の言葉である。

 してほしいことを叶えることがその人の幸せだと考えれば、この方の幸せのためには、娘さんに介護してもらうようにするということになる。子は育ててもらった親の恩に報いるべきであり、介護をしないことを親不孝だと責めることもあるだろう。

 では娘さんの立場に立てばどうか。子育てと介護をどちらもすることはできない。自分の息子を大事にするのは当然だということになる。さらに難しいことには、娘さんは母から虐待を受けてきたという。やっとその支配から解放されたと思っていたら介護の問題が起こってきた。介護しないことを親族や医療関係者に責められ、さらに追い詰められる。

 患者さんの立場から問題を考えると、誰も私の存在を認めてくれる人がいない、居場所がない、生きているだけで尊いとは思えないということである。一方娘さんからすれば、存在を認めることが大事だと言われても、とても生きているだけで尊いとは思えない、むしろいなくなってほしいと思っている。医療者側もこれまでしてきたことの報いであり自業自得だと考える人も多い。私自身、患者さんの前に立てば患者さんに同情し、娘さんの前に立てばひどいお母さんだと娘さんに同情する。では、あらゆる人をえらばず、きらわず、見捨てずという摂取不捨の場所は、一体どこにあるのか。阿弥陀仏の浄土とはそういう世界であるといわれてもすぐに頷くことができない。そこで世間では、すべての人が満足するということなどありえないとし、あらゆる人が見捨てられない場所などというのは綺麗事に過ぎないという。

 ところが、「しかれば名を称するに、能く衆生の一切の無明を破し、能く衆生の一切の志願を満てたまう」[聖典一六一頁]というように、阿弥陀の御名を称すれば、あらゆる人々の志願を満たすと仏教はいう。それは一体どういうことなのか。お念仏では満たされないではないかという問いを、曇鸞大師は『浄土論註』に「彼の無碍光如来の名号能く衆生の一切の無明を破す、能く衆生の一切の志願を満てたもう。しかるに称名憶念あれども、無明なお存して所願を満てざるはいかん」とその問題を提起し、それに答えて「実のごとく修行せざると名義と相応せざるに由るがゆえなり」という。

 児玉曉洋先生はこう述べられる。「では、どういうのが如実に修行しないことなのかというと、「いわく如来はこれ実相の身なり、これ物[衆生]の為の身なりと知らざるなり」と。(中略)「衆生のための身」ということはどういうことかというと、こちらが手を出すに先だって阿弥陀仏自身が絶えず衆生をすくおうとしてはたらき続けているということです。(中略) これは安田先生が、すでにここだここだと言っているのに、聞けばいいのに聞かずに、耳を塞いでいて、どこだどこだと言って探しているのだと言っておられます。」(『児玉曉洋選集第九巻』)医療や介護の現場には、どんな人も切り捨てることなく、一人の同じ人間として支援しようとする人たちがいる。それを支えるのは自身の悲しみを耳として「ここだ」という声を聞こうとすることなのか。浄土を映す場所が開かれるという具体的なかたちがそこにあるとは言えないか。

[『崇信』二〇一九年八月号(第五八四号)「病と生きる(48)」に掲載]

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