「ありうることだ」

 「調子はいかがですか」そうたずねると、「身体は調子がいいです」と言われる。医師としては身体の調子がよければいいところであるが、「身体は」というところが気にかかる。「身体は、ということは…」と言いかけて、どうたずねようか、心は?精神は?あるいは、などと考えていると、しばらくの沈黙のあとに「気持ちが晴れないですね」と言われた。「こうして何もせずに寝ているだけでは生きていてもしょうがない」と。

 あるとき、本誌でも二度ご紹介した詩人、岩崎航さんの話をした。筋ジストロフィーを抱えて生きてきた生い立ち、生きる意味を失い死を決意した絶望の中に立ち上がられたこと、しかし苦悩がなくなったわけではなく日々それに向き合っておられること、そんな岩崎さんの言葉に境遇を越えて生きる勇気をもらう人がいること、などなど。そのなかで岩崎さんの詩を一つ紹介した。

「青春時代と呼ぶには/あまりに/重すぎるけれど/漆黒とは/光を映す色のことだと」(『点滴ポール 生き抜くという旗印』)

そういう人がおられるんですね、と感銘を受けておられる様子であった。しかし続いて出てきたのは、「そうかもしれないが、私にはなかなかそう思えない」という言葉であった。

 それを聞いたとき二つのことが浮かんだ。宮下晴輝先生に教えていただいたパーリ律「大品」にみられる邪命外道ウパカの物語と、宮森忠利先生にいただいた小松大谷高校の宗教科文集『預流』の文章である。

 『崇信』巻頭言で宮下先生にこのように教えていただく。

外道ウパカは、釈尊に出会ったときそこに〈諸根悦豫姿色清浄〉を感得し、「あなたの先生は誰か。どんな教えを聞いているのか」とたずねた。仏陀釈尊は「私は一切勝者であり、師はなく、正覚者である」と答える。ウパカは「あなたは無限の勝者にふさわしい」という。釈尊は「煩悩を消滅すればわたしのような勝者になる」と説く。ウパカは「ありうることだ」といって頭を振りながら去っていってしまった、と。(「ああ、もう滅びそうであった」『崇信』二〇〇六年十一月号)

出会っていながらも出会えないということが仏典においてわざわざ語られる。

 一方、宮森先生の授業で岩崎航さんに出会ったある高校生は、作文の中で、「死のうと思ったことがあった」と打ちあけ、このように記す。

今、実はすごく悩んでいて、正直すごくつらいです。突然、涙があふれることもあります。こんなままで生きていて、つらいことばかりなのではないか、と思うことがあります。でも、岩崎さんのお陰で、「生きてやろう」という強い炎のような思いが私の支えとなってくれました。岩崎さんに出会えたことは私にとっての新たなスタートラインとなりそうです。(「生きてやろう」二〇一八年度小松大谷高等学校宗教科文集『預流』第三十六号)

 言葉に出会いながら出会い得ないという事態と、大きな出会いとなった事態。いったいそこにはどんな違いがあるというのか。私自身は今の生活が大きく変わったとしても、岩崎さんの言葉にもう一度出会えるのだろうか。頷いた仏陀の言葉に出会い続けることができるのだろうか。出会いより自分の思いを優先し、自己を生かす力を覆い隠してしまうような私である。しかしそんな私でも、いやそんな私だからこそより深く出会っていく道があると仏教は言う。

[『崇信』二〇二〇年二月号(第五九〇号)「病と生きる(51)」に掲載]

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