お疲れさま

  筋萎縮性側索硬化症(ALS)と診断されている一人の女性が入院された。介護する家族の休息のため一時的に入院することを、レスパイト(休息)入院と呼ぶ。今回は一週間弱の入院である。現在動く筋肉はほとんどなく、声はもちろん出せない。わずかに動く目線で透明文字盤を使って意思疎通を図る。

  文字盤には五十音が書かれている。「あ」「か」「さ」…というア段のひらがなを中心に、開いた花びらのように、「あ」の周りに「い」「う」「え」「お」、「か」の周りに「き」「く」「け」「こ」といった要領で配置されている。その文字盤を伝える側と受け取る側の間にかざし、目線を合わせる。「お」と言いたい場合、まず「あ」の辺りを見る。読み取る側は「『あ』ですか?」とたずね、合っていれば瞬きする。つぎに「あ」「い」「う」…と読み上げ、「お」のところで瞬きをする。そういう仕組みである。

 同行した看護師は慣れており、スムーズに読み取る。私は「何かお伝えしておきたいことはないですか?」と尋ねた。するとこう答えられた。「終わりですね」――それを聞いてドキッとした。ALSの方との対話の中で、生きる意味を失うということが問題になっている、ということがいつも頭にあった私は、人生が終わりだという意味かと思ったのだ。しかし全くの誤解であった。続いて出てきた言葉は「お疲れさま」であった。時刻は午後五時半。担当の看護師の日勤が終わる時間である。「日勤も終わりですね、一日お疲れさまでした」という意味であった。

 文字盤での会話は、慣れていてもやはり時間がかかるため、どうしてもよほど伝えたいことに限られる。だから多くの方は自分の症状や希望を訴えられる。こちらもそう尋ねているわけだから当然である。その中で、さりげない言葉であるが、看護師の一日の仕事をねぎらう姿に心を動かされた。過酷な状況の中でもこのように振る舞うことができるという、人間にとっての自由のあり方を見せていただいたように思った。それは特殊な状況の特殊な事柄に対する好奇ではなく、同じように喜び、同じように悲しむ一人の人間として、同じくあらゆる態度を取りうる可能性をもっていることに対する敬いの念である。

 アウシュビッツを生き抜いたフランクルの言葉が重なる。

強制収容所を経験した人は誰でも、バラックの中をこちらでは優しい言葉、あちらでは最後のパンの一片を与えて通って行く人間の姿を知っているのである。(中略)彼等は、人が強制収容所の人間から一切をとり得るかも知れないが、しかしたった一つもの、すなわち与えられた事態にある態度をとる人間最後の自由、をとることはできないということの証明力をもっているのである(V.E.フランクル『夜と霧』)。

人間の自由とは、与えられた事態にある態度をとることができることだという。

 児玉曉洋先生は「念仏成仏」ということを語られる中で、このように述べられる。

仏に成るとは、満足大悲の人と成って、人間として生まれたことの意味を完成することです。(中略)自らに満ち足りて、自らに由って、内面から湧き出る創造的意志に生きる人として、真の自由人です。(「念仏の感覚」『児玉曉洋選集第二巻』)

人間として生まれたことの意味を完成するという、一切を奪われてもなお失われない自由が人間にはあるのである。

[『崇信』二〇二〇年三月号(第五九一号)「病と生きる(52)」に掲載]