第1回 「医学の学び」と「仏教の学び」

私はもう治らないんですね。どうせ死ぬなら殺してください。

研修医だったあるときに投げかけられた、筋萎縮性側索硬化症(ALS)の患者さんの声です。非常に重い言葉を伝えられました。

ALSは難病中の難病。治療法がなく、全身の運動神経が障害されていきます。最後には呼吸もできなくなります。なんとかしたいという思いで、大学院でALSの研究を始めました

大学病院で診療しながら研究をする日々。患者さんの問題は何かと、身体的な面、精神的な面、社会的な面とさまざまな点から問題を考え、病気のしくみについても相当勉強しました。精一杯取り組んでいるつもりでいたあるとき、こう言われました。

あなたにはわからない

私は崩れ落ちるような思いでした。今まで何をしてきたのか。患者さんの声を聞き、患者さんに寄り添ってきたつもりでいた私は、いったい何を聞いてきたのか、何と向き合ってきたのか。

それでも私は、「そういう声にどうこたえるか」「病をどう治すか」「苦しみをどう無くすか」というようにしか問えませんでした。

その後仏教を学ぶようになって、私が気づいていなかったことを教えられたのでした。それは、

あなた自身は問題になっているか。

ということです。

自分が問われていない

今まで学んできた医学の学び方は、対象を向こう側に置いて分析して学ぶ、という学び方です。対象についての「知識」を身につけるという学び方です。身体的な問題と考えれば、身体が動かないことで不自由になっていることが問題だとか、心理的な問題と考えれば、病気だということを聞いて気持ちが落ち込んでうつになっているのが問題だとか、社会的な問題と考えれば家での介護に不安を抱かれているのではないかとか、そのように問題を考えます。もちろんそれがいけないわけではありません。そういうように問題を考えていくことも必要です。

しかし、それでは自分の苦しみをわかってもらえていない、と患者さんは受け止められたわけです。○○的な問題と考えることで抜け落ちることがあるのです。○○的な問題——それはある一側面で物事を切り取っただけです。

その人だけのかけがえのない苦しみ。身体的問題、心理的問題、社会的問題、そういうこと全体、人間として生きること全体を支えるものが崩れるという問題がある。苦しみといっても、単なる感情ではなく、私の存在自体を揺るがす出来事として受け止めなければならない問題なのではないか——。

医学の学びでは、そういうことを見る眼差しが抜け落ちているということになかなか気づけませんでした。

それは何故か。

それは自分が問われていないからです。患者さんと同じような状況の中であなたならどう生きるのか。自分はどういう枠組みでものごとを考え、どういうことで苦しむのか。そのような、自分のものの見方の枠組み自体を知る、自分のあり方を知るという学び方をしていなかったからです。

対象を学ぶのではなく、自分を学ぶ。対象の「知識」を学ぶのではなく、自分自身の姿を知らしめる「智慧」を学ぶ。それが仏教で学ぶ智慧です。あなたはどうなのか?と問いかけるのが仏教の智慧だということができると思います。

「問いがわかっている」という思い込み

自分が問われることなしに、患者さんの声を聞く、心の叫びを聞くと言っても、聞く耳が開いていない。声を聞いているつもりで聞いていなかったということを教えられました。

問題を解決しようというとき、問題も答えもわかったうえで解決法をさがします。しかし、自分が問われていないのに、どのように聞くのか、どのように寄り添うのか、どんな声をかけたらいいのかと考えても、それは問題も答えもわかっていないのに解決法を探していたようなものでした。そして答えをつかんでしまうと、それを押しつけると言うことも起こりえます。直接的に問題を解決しよう、苦しみを取り除こう、とするとき、そういう過ちに陥ります。

こんなことがありました。

お寺に併設する介護施設に、認知症と診断されている方がおられました。その方の部屋は5階ですが、あるとき1階まで降りてこられていました。その方は普段からうろうろされているので、ともすればその日の様子も”徘徊”だと見なされてしまいます。もし「問題」を「徘徊して危険だ」ということだと考えると、「答え」は「部屋に帰す」ということになります。そして連れて帰るか、抵抗されるなら薬を使うか、などと「解決法」をさがします。そうすると「なぜ1階に降りてきていたのか」ということを考えなくなってしまうのです。

みなさんなら、この方はなぜ1階に降りてきていたと考えますか?

実はこの日、前日に入居者の方が亡くなって、お寺ではお通夜の準備をしていたのです。ひょっとして、お寺の本堂に行って亡くなった方を弔いたいと思われていたのではないか。そう気がついた介護職員が、本堂にお連れしたのです。すると棺のところまでいって、手を合わせられたのでした。

このことは答えをつかんでしまっては、とても気がつけなかったことです。「わからない」ということを大事にしつつ確かめるということがなければ気がつけなかったことです。そしてある職業的な立場からもなかなか気がつけないことです。医者としての立場、看護師としての立場、介護士としての立場、ということを超えて、「人間として」ということがあって初めて気がつけるのではないでしょうか。人間として人の死を悼むという心があって、初めて気がつくことができる。

ですから、はじめに挙げた「死にたい」という声の奥底にある叫びを聞く、ということには「人間として」ということがなければならない。人間として何に苦しむのか。仏教の智慧はそのことを教えてくれるのだと私は受けて止めています。

では、「死にたい」という声の奥底にある叫びとは何か。そのことを次に確かめて行きたいと思います。

第2回 老病死の問題とは何か

2020年4月12日

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