第1回 認知症を通して問われること

みなさんは藤川幸之助さんという詩人をご存じでしょうか。お母さまがアルツハイマー型認知症の診断をうけて24年間介護されました。2013年に出版された詩集『徘徊と笑うことなかれ』のあとがきには、お母さまにとっては人生の三分の一を認知症と共に生き、藤川さんは人生の半分を認知症のお母さまに寄り添ったことになると記されています。

藤川さんの講演をお聴きしたとき、このようなことを話されました。

あるときからお母さまが、キューピー人形を大事に抱えてあやすようになったのです。

そういう姿をみて、みなさんはどう思われますか?

藤川さんは、「恥ずかしいからやめろ」といって何度も取り上げようとしました。けれどもお母さまはわたそうとしません。

そんなあるとき、認知症は充実していたころの記憶に戻るということをきいて、藤川さんはハッと気づかれました。母は子育てをしていた頃の自分を生きているのではないか、この人形は息子である私ではないか、と。

私を大事にしてくれていた。そんな私を大事に思う心を、恥ずかしいと思ってしまっていた。そんな自分を恥じたといいます。

間違ったことをやめさせよう、やめさせようとしている人は相手の話を聞かない。相手を正そう、正そうとしている人は、相手の心をわかろうとしない。それが自分だったとおっしゃっていました。

藤川さんの詩を一つご紹介します。

 愚かな病         藤川幸之助

むかしむかしのこと
認知症を痴呆症と言っていた
「痴呆」を私の辞書で引くと
「愚かなこと」と出る
母の病気は愚かになっていく病気らしい

この病気を抱えながら二十数年
必死に生きてきた母のその一日一日
何も分からないかもしれない
何もできないかもしれないけれど
母は決して愚かではない

そんな母の姿を受け入れられず
ウロウロするなと
何度も何度も苛立ち
訳のわからないことを言うなと
繰り返し叱り
よだれを垂らす母を
恥ずかしいと思った
私の方がよっぽど愚かなのだ

忘れ手放し捨てながら
母は空いたその手に
もっと大切なものを
受け取っているにちがいない
その大切なものを瞳に湛えて
静かに母は私を見つめている

(藤川幸之助『徘徊と笑うことなかれ』)

「何も分からないかもしれない、何もできないかもしれないけれど、母は決して愚かではない」「私の方がよっぽど愚かなのだ」そう藤川さんは言います。

「認知症」はかつて「痴呆」と言っていました。「痴」も「呆」も愚かという意味です。英語で痴呆を意味するdementiaの語源であるラテン語のdēmēnsも、mēns(心)がない、ばかだという意味です。

私たちはともすれば、いのちを価値を「できるか、できないか」つまり能力というものさしで量ってしまいます。量ることのできるいのち(有量のいのち)をほんとうの価値であるかのようにみてしまう。そういういのちの見方を、仏教では「分別《ふんべつ》」といいます。一般語で”分別がある”というと、思慮深いというような意味ですが、仏教語では全く違う意味です。

しかしそうではないものさし、量ることのできないいのち(無量のいのち、無量寿)をみる眼差しがある。そういう眼差しを持つ人を仏《ぶつ》といい、無量のいのち、無量寿をみる智慧を仏の智慧、仏智《ぶっち》といって大事にされてきたのです。

認知症という病気から、私たちはどんなものさしで「いのち」を見ているか?という、私たちの「いのち」の見方が問われる、といえます。

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