新型コロナウイルスをめぐって

このたびの新型コロナウイルスの問題には、さまざまなことを考えさせられます。ただ不安になるのではなく、自分のあり方を確かめるきっかけにしたいと思っています。

「生きる」ということを改めて考えると、自分が生きるということが、他者のいのちとつながっている、さらにいえば、自分が生きるということが、他者を傷つけている、ということを改めて気づかされます。

ウイルスそのものがいのちを傷つける

今回のウイルスはまだ性質の全貌が見えませんが、急速に拡大しています。多くの人は、自分が感染しないように予防しようとは考えますが、まさかすでに感染していて、自分が感染させる側になるとはなかなか思えません。ですから、無自覚に感染を広げてしまう。自分の無自覚な行動が、誰かの死につながることさえあるということになります。飲み会に出かけたことや、マスクをせずに外に出たこと、無意識に顔に触ったことさえも、感染を広げるきっかけになってしまいます。

逆に言えば、一人一人の行動が感染拡大をふせぎ、生命を守るということにつながるといえます。

一方で、その感染拡大をふせぐためには、どうしても移動を制限しなければならなくなりますから、その結果、経済的に生活が成り立たなくなってしまう、ということも起こります。精神的に追い詰められるということもありえます。究極的には生きる意味を失ってしまうところまで追い詰められるということもあるかもしれません。

自分の欲求がいのちを傷つける

それに対して、感染対策を厳密に考えたら、何もできなくなるのだからしかたがないと開きなおって、何も配慮しないということになれば、それは大切な誰かや見知らぬ誰かを危険にさらすことにつながってしまいます。何も配慮することなく、旅行に行ったり、集まりを開いたり、マスクをつけたくないといってしなかったりすることで感染を拡大してしまうということになる。

それは自分のしたいことをした結果ですから、自分の欲求が人を傷つける、といえます。仏教の言葉でいえば、「我執《がしゅう》」(自分や自分のもの、自分の考えに固執すること)がいのちを傷つけるということになるかと思います。

正義がいのちを傷つける

逆に、自分はどんなときも意のままに行動できるんだ、という”善人”の立場に立ってしまうと、「あなたの対策は不十分だ」と他人を責めることになります。隣で咳をされただけでもイライラし、やむを得ず外出したことを無責任だと責めたりします。相手をいたわるより先に、非難してしまうということが起こります。

それは自分自身に向かうこともあるかもしれません。自分が誰かに感染させたのではないか、私はもっとできることがあったのではないか、と自分を責めるということも起こるかもしれません。

生命を守ろうとすること、よかれと思ってした行動やかけた言葉が、かえって人を傷つけるということがありえます。親鸞という人は、そういう”善人”の立場に立ってしまう自分の問題に向き合った人だと受け止めています。

差別がいのちを傷つける

正義ということは差別ということにつながります。自分が持っている価値基準、「これはよい」「これは悪い」と決めるものさしは、「悪い」と決めたことを排除することにつながります。○○人が悪い、あの店は危険だ、医療従事者の家族は危険だから近寄るな、と差別を助長していきます。

自分はどんなものさしで、人やものごとを判断しているか、ということを確かめる機会がなければ、無自覚なうちに差別を生み出し、人を傷つけているということが起こりえます。仏教の言葉でいえば、自分のものさしのことを「分別《ふんべつ》」といいます。分別が人を傷つけるということができると思います。

そして差別によって人を非難し、いじめ、さらには暴力にまでつながっていく。もとはといえば生命を守ろうとしたことが、最後は暴力になる。生命を守るということは、かえって暴力的になるということを改めて確かめておかないといけません。

いのちの選別を問う

いま、爆発的に感染が拡大した国では、人工呼吸器が不足するということが起こっています。日本でもいずれそうなる可能性があります。医療現場では、誰に人工呼吸器を使うかということが迫られるときがくるかもしれません。そのとき、いのちを見る価値基準が問われます。もし、人のいのちを能力という価値基準で判断してしまうと、高齢の人や障害がある人の優先度が下がってしまうおそれがあります。そのような判断のしかたが決してあってはなりません。

いのちを量る自分のものさし、何を価値あるものとしてみて、何を価値のないものとして排除しているのか、ということをよくよく確かめなければならないと思います。それは自分の中にある差別性を見つめるという、ある意味では厳しい態度が必要になります。

生きるということ

いのちを生きるということと、いのちを殺すということとが切り離すことのできない問題であることを、このたびの感染症の問題から改めて考えさせられます。自分の無自覚な行動や、自分の楽しみ、自分の善意さえ人を傷つけ、無自覚に差別を生み出していることを改めて確かめておかないといけません。そしてその心は他者だけでなく、自らのいのちも傷つけることになります。

そのことは、”善人”の立場から一方的に責めるべきことではなく、同じくいのちを傷つけてしまうようなあり方をしているという立場から、そのことを共に悲しみ、共に確かめるべきことなのだろうと思います。

しかしまた逆に、自分の少しの心配りが人を生かすということがあります。自分が苦しみ悩んだことが人を生かすことさえあります。また、見知らぬ誰かの願いによって生かされ、苦悩によって生かされるということもあるわけです。

私がいのちを生きている」と思っていますが、無限のつながりの中にある「いのちが私を生きている」ということに改めて気づかされます。

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