共業

認知症外来でのことである。付き添いの奥様がお疲れの様子であり、あとでそのわけを伺った。すると最近夫が暴力的で困っているという。普段は穏やかなのだが、急にスイッチが入ったように目の色を変えて手を上げると。認知症だからでしょうか、と問われる。確かに、認知症が原因であって人格の問題ではないと言えば、何かその人の名誉を傷つけずにすむような感じもする。認知症では側頭葉の働きが低下しうまく言語化できないために表現が限られ暴力につながりやすいとか、前頭葉の働きが低下し感情をうまく抑制できないとか、医学的に説明することは、認知症を理解するという意味で大事な面もある。

しかし一方で、「認知症だから」と言ってしまうと、何か特殊な人の特殊な状況であって、同じ人間として、という立場が見えなくなる。「そんなことがあったら誰でも腹が立つよね」「それは悲しくて怒るしかなくなるかもしれない」そういう共感がもてなくなる。そのことが患者と家族との間の溝を深めていく。

最近何か変わったことはないかと奥様に尋ねるが、思い当たらないという。しかしいま、誰もが話題にあげる大きく状況が変わった出来事があるではないか。新型コロナウイルスの蔓延である。実はこんなことがあった。マスクをするように言うのだが、なかなかしてくれない。人様にうつすかもしれないのだからと、厳しい口調にもなるという。また銭湯に行くのが好きで、唯一の楽しみだとご本人からもたびたび聞いていたが、銭湯は感染が心配だから行かないでほしいと言っているという。

認知症で介護される立場におかれると、普段からさまざまな間違いを責められ、いつも周りから「あれこれをしてはいけない」と言われているような威圧感を感じている。また、ただでさえ自分の能力が失われていく不安の中で、介護されることによって自分のできることまで奪われていくように感じるという。自分を否定される痛み、自分のものを奪うものに対する苛立ちなら、それはよく理解できる。決して認知症に特異的なものではない。介護する立場とされる立場という支配被支配の構図はコロナ禍の中でより尖鋭化し、もともとあった分断がより深くなる。ウイルスの影響はこんなところにも出てきている。

このことは、感染症蔓延の世の中における加害者と被害者という構図がはらんでいる問題にも通じるように思う。感染症に「かかった」という事実に対して、それを他人の不注意で「うつされた」といえば恨みも起こる。自分の不注意で「うつってしまった」といえば後悔も起こる。どちらにしても胸は収まらない。

安田理深先生は隣家の火事で自宅が全焼したことについて、講演の中でこのように語られている。

「彼が焼いたんだ、私の方は焼かれたんだ。焼いたものに責任があり、焼かれたものに責任はないと、こんなふうに分別で判断するけど、それが抽象的だという意味は、そういう判断では胸はおさまりはしない。焼いたんでもない。焼かれたんでもない。焼けたんだというところに、はじめて肩の荷がおりてくる。だから、焼いた方も焼かれた方も業を共通したんだ。共業です。人間と人間とが偶然にあるというのではない。人間と人間とが業によってつながり合っている。」(「自然と人生」『大乗の魂』所収)

介護や新型コロナが浮き彫りにする分断の問題を乗り越える手がかりは、この共業ということにあるのではないか。しかしそこがすっと頷けないから、学びを進めなければならない。

[『崇信』二〇二〇年六月号(第五九四号)「病と生きる(55)」に掲載]

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