共感の源泉

これまで「病と生きる」という題のもとに書いてきているが、病と生きるといっても、私自身はいまのところ重い病を抱えているわけではない。昔から体調を崩しやすく、年に何度か高熱を出して寝込むということはあるが、いずれ回復するようなものである。病と生きるとはどういうことか、いま身をもって語れるわけではない。だから「病と生きる」といっても、私が出会った人の姿と、私がどう受け止めたかを書くしかない。

そのため、どこまで語りうるのか、語りすぎていないかということがいつも気にかかる。患者さんのことを書くとき、個人が特定できないよう敢えて抽象的な記述にしているため、人の顔が浮かびにくいと言われるかもしれないが、いつも実際に出会った方の顔を思い浮かべて書いている。そのとき、問題が深刻であればあるほど、ただただ黙って頭を下げるしかないという思いから、書けなくなることもしばしばである。今もそうである。今日診察した方のことを書こうとしたが、とても書けそうにない。多系統萎縮症のためにお話しができなくなってきた。廊下から流暢な話し声が聞こえるだけで自身の病気の進行を突きつけられる思いで、昔はおしゃべりだったのにこんなに話せなくなったと語られる。それに対して一体何が言えるだろうか。ただただ私がいまだ経験していない問題に先に向き合っている方から、教えを請うのみである。

題を「病と生きる人々」などとする方法もあったが、それではどこか他人事である。言うまでもなく、私自身を含めてどんな人も老病死を免れることはできないのであるから、他人事でありうるはずもない。たったいまも教えを請うと言ったばかりである。しかしでは、患者さんの苦悩は自分が生きるということとどう関係するのか。
そういう題にしなかったもう一つの理由は、かえって個人が見えなくなるのではないかという懸念であった。どうも対象化して分析的に見てしまう傾向にある私などは、臨床研究でよくある「症例報告」のようなものにしてしまうおそれがあったのである。ただの”症例”ということになると、そこに「個人」がいなくなってしまう。ただ繰り返される一現象に過ぎなくなる。

しかしその苦悩が個人の経験にとどまるのであれば、それは自分とは関係しえない、わかりえないことではないか。たとえ同じ病気にかかったとしても、みな境遇が違う以上、抱える苦悩も当然同じではない。しかしまた、その個人の苦悩と、あらゆる人が生きるということとの関係を見ようとしたとき、それが単なる一般化であれば、そこに個人が見えなくなる。

では個人の苦悩を語りえないかけがえのないものとして敬いつつ、しかもそれが一個人を超えてあらゆる人が生きるということと関係するということはどういうことか。そこに、単なる一般化ではなく、経験以前の原理を確かめるということが求められるのではないか。つまり、苦悩をただ感情や経験ではなく、「人間だから苦悩する」と見たとき、では「なぜ人間だから苦悩するのか」という問いである。度し難い苦悩の原理を悲しみつつ知るところに、我われが「共感」と呼んでいるものの源泉があるとは言えないだろうか。

[『崇信』二〇二〇年八月号(第五九六号)「病と生きる(57)」に掲載]

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