告知せず

たまたま『アンサングシンデレラ』という病院薬剤師が主役の漫画を手にした。最近ドラマ化したらしい。それを読んで17年前のことを思い出した。私は大学病院で神経内科の研修を終えた後、市民病院で内科の研修中で、呼吸器内科を回っていた。季節はちょうど今頃のことである。Yさんという方を受け持った。診断は肺癌で、すでに全身に転移がみられ、末期の状態であった。私は指導医とともに、息子さんに病状をお話しした。息子さんは「病気のことは絶対に本人に言わないでほしい、精神的に弱い人だから、落ち込んで生きていくことができなくなる」と言われた。

最初に紹介した漫画では、癌の末期である太一に対して息子が告知を拒むという、まさに同じような状況が描かれている。おじいちゃんが大好きな孫の樹里は、癌で余命が短いということだけでなく、噓をつくことへの罪悪感、父に対する不信感で摂食障害になる。そのことに向き合おうとする病院薬剤師のはたらきかけもあり、樹里は父に思いを伝え、父も自らの態度を見直し、バラバラになりそうだった家族が少しずつ同じ方向を向き始める。私のときには、おじいちゃん子の孫も、奮闘する薬剤師もいなかった。指導医に相談するが、家族が告知を拒んでいる限りはその方針で進めるしかないというところで止まり、私もそれ以上のことはできなかった。

当時の風潮として、ときに告知しないということもみられた。しかしその後は、自ら治療を選択すべきであると考えが主流となり、現在では病名を告げることが多い。すると今度は、機械的に病名や予後を告げ、後は自分で受け止めよという医師の姿勢が問題となってくる。

告知をしないということは、「事実に立てない」という、自分のことであるのに他人事になってしまうという問題である。無神経に告知をするということは、「自力で事実に立て」と突き放し、自力の限界に行き詰まるという問題である。これは癌の告知の問題であるが、私が死に向き合う際の問題そのものではないかと思う。

私自身、死という事実に対して、自分の身に起こる事実なのに他人事であり、事実の上に立てていない。いつまでも生きられると自分に嘘をついているようなものであり、告知されていない患者の立場に通じる。それに対して、なんとか自力で事実に立とうするがそこで行き詰まる自分もまたある。これは無神経な告知をうけた患者のようである。どちらも事実に立てないという意味では同じである。

Yさんは息子さんによって自分の病を受け止めきれないとみなされたが、実際はそうではなかったのではないか。手元にYさんが残された詩のメモがある。もう私しか持っていないのでここに記しておきたい。

晴天の秋空照らし昇りゆと
朝日に託さん今日の我が身を

ことごとに家族の如く
奉仕される天使の心に
頭べが垂れつつ (2003年10月4日)

我が身を朝日に託さんというところに、自分の思いを越えて我が身自身に立とうとするYさんの姿が現れているとは言えないだろうか。

児玉曉洋先生はこのように言われる。

「運命論と区別された宿業の自覚において、私たちは「我が心の思い」、つまり恣意から解放されて、本願を信ずる。そこに本当の意味の自由が実現する。」(『児玉曉洋選集第十巻』歎異抄に聞くⅢ「第十三章について」四四七頁)

ただ自分の思いを越えたものにおまかせするということなら運命論と十分区別はできない。その中で我が身自身に立とうとするところに苦悩がある。朝日に託さん、という言葉の奥で、我が身自身に立ち上がった人の、その心を求めていたと言うのは言い過ぎだろうか。

この詩を詠まれたおよそ三週間後、10月27日に息を引き取られた。もうすぐYさんの命日、いのちの日である。

[『崇信』二〇二〇年十月号(第五九八号)「病と生きる(59)」に掲載]

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