第5回 苦悩の奥底にある問い(2)—ALS患者の問いと「諸行無常」がもつ課題

テーマ
人間にとって信頼とは何か
要旨

人間は、形作られたものである「諸行」を「私の喜び」としている。それが喜びであるのは、それを「意味あるもの」と信じているからである。人間は生きる上で「意味」に対する「信頼」を必要とするようなあり方をしている。「無常」とは外にあるものが壊れることを指しているのではなく、私たちの内にある、生きる喜び、生きる意味に信頼がおけなくなることである。そう受け止めたとき、四門出遊の物語が、釈尊個人の経験ではなく我われの物語になる。諸行は無常であると見て、国と財と位を捨て出家をしたということは、諸行という生きる意味が崩れるという絶望の中から、諸行だけを喜びとしない生き方に出会い歩み出したということである。

 

問題の出発点

前回から、ALS患者の苦悩を、釈尊の四門出遊の課題を通して確かめ始めている。ALSの患者が、完全な閉じ込め状態(TLS)になっては生きられないと言う声、寝たきりのALSの患者が「死にたい」と言った声、認知症患者が「人のものを全部取っていく」と言った声を、どう聞くべきかというところから始めた。それは「生きる意味を失う苦悩」であり、我われ人間として生きる者みなに対して、生きていく上でもっとも大事なものは何か、ほんとうに生きる支えになるものは何かという問いかけと聞かなければならないと確かめた。言い換えれば、私が支えにしているものによってかえって生きられないとすれば、その「自分にとって大事なもの」によってかえって自他の”いのち”を傷つけているのではないか、という問いかけでもある。このように、生きる意味を失うという苦悩が、「人間として生きるとは何か」ということを尋ねる出発点であり、四門出遊において、老病死を見て出家したという物語に表されている、仏教の基本的問題領域と一致している。

『無量寿経』に見られる四門出遊の場面をもう一度確かめると、「老病死を見て、世の非常を悟り、国と財と位を棄て、山に入りて道を学ぶ」とあるように、釈尊は、老病死を見て無常であると知り出家した。「老病死を見た」ということは「生きる意味を失う苦しみを見た」ということであると先に確認した。では生きる意味を失ったものが、なぜ出家しなければならなかったのか、あるいはどうして出家することができたのか。「出家」とは、サンスクリット語でpravrajitaという語であり、pra√vraj(前に向かって進む、出発する)という動詞が元である。したがって、出家の課題は「生きる意味を失ったものが、どうして再び歩み出すことができたのか」という課題と受け止めることができる。

その「出家」ということの背景に、「(諸行は)無常であることを知る」ということがあった。では諸行とは何であるか、諸行が無常であるとは何を意味するのか。それは世間一般の理解としてよく見られる、”形あるものは崩れるはかないものだ”という意味であれば、それはただ自然の摂理を知ったということにとどまり、なぜ人間は生きていることを喜べなくなるという事態に陥るのか、またどうしてその事態から再び歩み出すことができるのかという、我われが「人間として生きる」ということの課題を展開することは難しい。したがって、まず諸行無常ということが、「人間として生きる」ということにどのように関係しているのか、その意味を確かめていきたい。

 

生きる意味と「諸行」

無常、諸行無常ということは、阿含経典においてこのように示されている。

Saṃyutta-Nikāya 1.2.2 Nandana
Aniccā sabbasaṅkhārā uppādavayadhammino,
Uppajjitvā nirujjhanti tesaṃ vūpasamo sukho.
『増一阿含経』第三十一増上品 (672b14-15)
一切行無常 生者必有死 不生必不死 此滅為最楽
(一切行は無常なり 生ずれば必ず死有り 生ぜずば必ず死せず 此の滅を最も楽と為す)

Digha-Nikāya 16.6.10 mahāparinibbāna-suttanta
Aniccā vata saṅkhārā uppādavayadhammino,
Uppajjitvā nirujjhanti tesaṃ vūpasamo sukho.
『大般涅槃経』聖行品(雪山偈) (450a16, 451a01)
諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽
(諸行は無常なり 是れ生滅の法なれば 生滅滅し已りて 寂滅を楽と為す)

諸行という語はサンスクリット語でsaṃskārāḥであり、常に複数形で表され、「形づくられたもの」「形成されたもの」という意味である。それは我われにとって生きがい、生きる意味と関係する語である。

我われにとって生きがいとは何か。生きていく上でもっとも大事なものは何か、ほんとうに生きる支えになるものは何か。人間として生きるとはどういうことか。それは順調なときには問題にならない。生きる意味を失うという苦悩は、人間として生きるとは何かという根源的問いの契機である。生きがいは何かと改めて尋ねれば、例えば仕事が生きがい、趣味が生きがい、食べることが生きがい、友人との会話が生きがい、家族が生きがい、など様々な答えが考えられるが、老病死はこれまで生きがいだと思ってきたこと、生きる支えにしてきたことを奪う。そのとき、生命は生きているのに”いのち”が生きられなくなるという事態が人間には起こる。我われ人間にとって、この生きる支えにしていることが「諸行」である。しばらく宮下晴輝先生の『はじめての仏教学 ―ゴータマが仏陀になった』を参照していきたい。

諸行と言えるもの、形成されたものを、私たちの生活の身近にあるものから挙げてみましょう。親子、夫婦、家庭、友人、学校、仕事、会社、あるいは田畑、家畜、財物、あるいは政権、民族、国家、あるいは知識、技能、資格、思想、イデオロギーなど、 いろいろと挙げられます。これらはみな、形成されたものと一言で言えますが、さまざまな意味や価値をもって形づくられたものです。ここに挙げたものはみな、生活にとってとても大事なものばかりです。時にマイナスの価値をもつものとなるにしても、意味あるものとして形づくられたものばかりです。これらは、私たちの生活のよりどころであり、支えだと言えます。だから、私たちは、それらを喜びとし、時にそれらを誇り、支えにして安んじて生活していきたいと思っています。(『はじめての仏教学 ―ゴータマが仏陀になった』p.55)

形作られたものが「諸行」であり、我われは、仕事や財産、自分の能力など何らかの形作られたものである「諸行」を喜びとし、支えとしている。そして、そしてその背景にあるのが「信頼」ということである。

そしてこれらが、私たちの生活の支えであり、よりどころであると喜ぶことができるのは、そうだと信じているからなのです。信頼があるから、そこに自らの身をあずけて安んずることもできるのです。そうすると、私たちの生活の土台になっているものとは、その信頼関係なのだと言わなければならないでしょう。(同上p.55)

つまり、我われ人間は、形作られたものである「諸行」を「私の喜び」とし、それが喜びであるのは、それを「意味あるもの」と信じているからであるということである。「諸行」が「意味あるもの」であるという信頼が、生活を支えているのである。逆に言えばその信頼が崩れれば生活が成り立たなくなるのである。

 

人間にとって信頼とは何か

信頼によって私たちの生活は成り立っているのです。信頼がなければ、この身一つそこによせることもできず、安らぐ場所を失ってしまいます。それほどに信頼ということが大事です。それにもかかわらず、これほど危ういものもないのです。信頼関係の崩壊は、まったく容易にやってきます。噓が入れば、どんな信頼関係も崩壊してしまいます。これは、私たちが身にしみて知っていることでしょう。(同上p.55)

ALSという難病で、仕事ができなくなっても、自由に動けなくなっても、意思疎通があれば生きていけると照川氏は言った。それは意思疎通する能力という「諸行」に意味があるという信頼があるからである。しかし、逆に意思疎通ができなくなったら命を終えたい、と言われた。意思疎通ができなくなれば、信頼を支えるものがなくなり生きていくことはできないというのである。信頼が崩れたとき、生きる意味に対する疑いの中に投げ込まれてしまうのである。世の中の他の諸行を見渡しても、一切信じられるものがない。照川氏は意思疎通が失われたら精神的な死であり、家族のために生きろと言われても酷だと言われた。財産も地位も名誉も家族も、何も生きる依り所とならないのである。

信頼できる家庭や仕事があるということは、私たちにとっての生きる喜びです。信じられるものがあるということは喜びです。そんな喜びのことを、生きる意味と言ってもいいでしょう。したがって、生きる意味を疑うというのは、本当に心底満足して喜ぶことなんてあるのだろうかと思うことなのです。

一人死にゆく苦しみの中で、寂しさや空しさを超えて確かな支えとなるものは何もありません。どこにも本当の喜びを見出せなくなります。それはまた、何ひとつ信じられなくなるということでもあります。(同上p.58)

信じられるものがあるということは、「生きる意味がある」と喜べることであり、逆に信じられるものがないという疑いは、「生きる意味などあるのか」と生きることを喜べなくなることなのである。人間は生きる上で「意味」に対する「信頼」を必要とするようなあり方をしているということである。

したがって、これはALSや病を抱えた人だけの特殊な状況ではない。例えばある認知症患者は「何となくさみしい」と言った。仕事をやめてすることがなくなった、趣味もできなくなった、友人にも会えなくなった、生きがいだった孫も成長して相手にされない。今まで喜びだと信頼していたことが失われていく。周りを見渡しても喜びだと信頼できるものは何もない。ではいったい今の自分は何が喜びなのか、生きている意味はあるのかという疑いに投げ込まれるのである。

 

「無常」がもつ課題

したがって、老病死を見たということによって、これまで信頼し喜んできたものが、もはや本当に信頼し喜ぶことができなくなってしまうこと、これまで支えであると信じてきたものが、確かな支えではなくなること、これが「老病死を見て無常を知った」ということの内実なのだといえるでしょう。(同上p.59)

このように、老病死を見た、無常を知った、ということは、ただ世の中にある外的なものが崩れていくということを指して無常というのではなく、私たちの内にある、「生きる喜び」「生きる意味」に信頼がおけなくなることを指しているといえる。人間にとって、「意味」を失うということは喜ぶことも悲しむこともできなくなるような、人生の根本的な問題なのである。この問題は、ALS患者の「死にたい」という声、認知症患者の「さみしい」という声を、身体的問題、精神的問題、社会的問題などと対象化し分析してもあきらかにならない。それらの問題を抱える人間全体を根本から支える問題である。つまり老病死の苦悩には、そこに「人間であること」が現れているのであり、「人間的問題」であるといえる。「無常」がもっている課題をそのように読むことで、四門出遊の物語は、青年ゴータマの個人的な経験ではなく、我われ一人一人の”いのち”の物語となる。

 

無常であると知ったらどうするか

では無常であると知ったとき、つまり私たちの外にあるものだけではなく、内にある「生きる意味」に信頼がおけなくなったとき、私たちにどういう態度があり得るだろうか。無常だと知ったらなおさらそれを楽しみたいと思うほうが、むしろ一般的にはよくある考えであろう。例えば『成実論』にはその疑問が示されている。

問曰 無常想を修して能く何事を辦ずるや

答曰 能く煩悩を破す。経の中に説くが如し、善く無常想を修せば、能く一切の欲染、色染、及び無色染、悼、慢、無明を壊すと。

問曰 然らず。此の無常想も亦た能く貪欲を増す。人の盛年の久しからざるを覚知すれば則ち深く婬欲に著し、華の久しくは鮮やかならざるを知れば則ち速やかに用いて楽と為し、他の妙色の已に常の有に非ざるを知れば、則ち駛せて婬欲を増すが如く、是くの如く無常を知るに随いて則ち貪著を生ず。

無常であると知れば、煩悩を破るというが、かえって貪欲は増すではないか、と疑問を呈する。元気なうちに楽しんでおこう、花は散る前に楽しんでおこうと思うではないかというのである。

この態度は、まだそれを楽しむことができているのであるから、「無常であると知った」といっても「生きる意味」を失い切ってはいない者の態度である。人間は、諸行こそ私の喜びであると信じて生活の支えにしていることを確かめたが、それほどまでに信頼をもとめる我われ人間は、いつのまにか諸行が私そのものであるかの如く意味を強くつかむ。それによって、例えば、健康あってこそ私だと信じる者は、健康でない私は私ではない、健康でなくては価値がないと見なす。仕事ができてこそ私だと信じる者は、仕事ができない私は私ではない、価値がないと見なす。つまり、自分が信じている意味によって、かえって私は生きられなくなり、それによってかえって自他の”いのち”を傷つけているのである。ほんとうの自分ではないという意味で「仮」である諸行を、ほんとうの自分、「真」だとして生きている。それほどまでに信頼を求めているといえる。

それに対して、そのような態度ではない生き方があるのではないかと仏教は言う。『成実論』には、

答曰 無常を以ての故に別離の苦を生じ、盛年・安楽・寿命・富貴を失す。智者は此れを以て喜心を生ぜず。

とある。無常であるから、自分がつかんだ意味が失われて苦しむことになる。地位や財産はもちろん、家族も病を抱えて生きる支えにならないということはすでに確かめた。それに対して、「智者は此れを以て喜心を生ぜず」つまり仏道を歩む者は、それらの諸行を喜びとしないという。諸行を喜びとすることが善いか悪いかということを問うているのではない。人間であるから諸行を喜びとする生き方もある。諸行を喜びとしてもよいが、それのみを喜びとしない、諸行のみを喜びとしない生き方があるというのである。四門出遊において出家した釈尊は出家者に出会い、喜びをもって出家したが、諸行である国と財と位をすてて出家したのであるから、諸行ではないものを喜びとしたということである。

では老病死によって、何ひとつ生きる喜びと信じることのできなくなった釈尊は、何を喜びと信じて出家したのだろうか。次回はそのことについて確かめていきたい。

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