第6回 苦悩の奥底にある問い(3) —老病死の苦悩と「信」のもつ課題

テーマ
絶望から歩み出すということ
要旨

生きる意味を失い、何も信じることのできない絶望の中から、どうして歩み出すことができるのか。信じられる真実など最初からないのだとすれば、苦悩することもない。戦争で人を殺したと苦悩する人物がいる。戦争だから仕方がないとしてしまえば苦悩もない。しかし現にそこに苦悩があるということは、真に人間でありたいと願うからである。人間は、苦しむという形で真実を求めている。そこに人間の人間たる所以がある。出家したということのもつ意味は、真実を求める心が確かにあるということを信じて歩み出したということである。

 

どうして歩み出せたのか

前々回から、老病死の苦悩について、釈尊の四門出遊の課題を通して確かめている。老病死の苦悩とは、「生きる喜び」「生きる意味」に信頼がおけなくなり、疑いに投げ込まれるということであると確かめた。その疑いが不安や孤独、絶望といった形で現れていると言える。ではそのような疑いの中にあり、何ひとつ信じることのできないものが、何かに向かって歩み出すことがどうしてできるのだろうか。そのことが、今後講義全体、あるいは人生全体をかけて確かめていく課題である。

老病死の苦悩は激流に喩えられ、それを超えていくということを『スッタ・ニパータ』にはこのように述べられる。

kathaṃ su taratī oghaṃ, kathaṃ su tarati aṇṇavaṃ,
kathaṃ su dukkhaṃ acceti, kathaṃ su parisujjhati. (183)
いかにして激流(ogha)を渡るのか、いかにして海を渡るのか。
いかにして苦しみを超えるのか、いかにして清らかとなるのか。(183)
saddhāya taratī oghaṃ appamādena aṇṇavaṃ,
viriyena dukkham acceti, paññāya parisujjhati. (184)
信仰(saddhā, śraddhā)によって激流を渡り、不放逸(appamāda, apramāda)によって海を渡る。
勇気(viriya, vīrya, 精進)によって苦しみを超え、智慧(paññā, prajñā)によって浄らかとなる。(184)
(『スッタ・ニパータ』183,184)

「信仰によって激流を渡り」とある。しかし先に、老病死を見て無常を知るということは、何ひとつ信じることができなくなる苦しみを知ることであると確かめた。ではそのような信じることが何もないというところから、どうして歩み出すことができるのか。釈尊自身が「信仰」といっているのであるから、それは、教説でもなければ神でもない。外にある実体的な何かをさして、それを信じて歩むというのではない。では釈尊は一体何を信じたというのだろうか。

無常を知ったとき、我われにどういう態度があり得るか。無常であるならば、なおさらそれが崩れるまえに楽しみたい、自分の欲望を満たしたいとすることもあり得る。むしろそう考える方が普通かもしれない。四門出遊の物語にはそのように、すぐに出家するのではなく、欲望を満たそうとする青年ゴータマの姿も描かれる。

1)爾時太子、在於宮内、充足五慾娯樂遊戲。
爾の時太子、宮内に在りて、五慾を充足し、娯樂し遊戲す。
(その時太子は、宮中に滞在して、欲望の対象をことごとく満たし、楽しみ、遊び戯れた。 )『仏本行集経』出逢老人品第十六、大正蔵3, 720c29-721a1.
2)如是次第、太子在於宮内之時、具足而受五慾功徳、晝夜無絶。
是の如き次第にて、太子、宮内に在るの時、具足して五慾の功徳を受け、昼夜絶ゆるなし
(このような次第で、太子は宮中に滞在しているときは、ことごとくの欲望の対象と効果を十分に受けて、昼夜絶えることがなかった)
『仏本行集経』道見病人品第十八、大正蔵3, 723a2-3.
3)如是次第、太子在於宮内、具足而受五慾、恣意歡喜。
是の如き次第にて、太子、宮内に在りて、具足して五慾を受け、意を恣にして歓喜す。
(このような次第で、太子は宮中に滞在して、ことごとくの欲望の対象を十分に受けて、心をほしいままにして喜んだ。)
『仏本行集経』路逢死屍品第十九、大正蔵3, 723c23-24.

このように、欲望を満たそうとする青年ゴータマ(太子)の姿が描かれる。このときの青年ゴータマは、自分の欲望を満たすということに意味があると信じているといえ、ある意味で「信頼」が崩れていない。諸行は無常であると知っても、諸行の中に喜びを求めようとするのである。しかし、ALS患者の声を聞くに、もはや諸行の中で自分の欲望を満たすということは生きる支えにならないのである。病を前にしたとき、現に生命はまだ生きているにもかかわらず、それを喜べなくなる。生きていれば楽しいこともあるといわれても、もはや信じることができないのである。

この経典では、北門からでて出家者に会う場面でこのようにある。

4)道上見彼出家者、心生大喜此是眞。
道上に彼の出家の者を見て、心に大喜を生ず、「此はこれ真なり」と。
『仏本行集経』耶輸陀羅夢品第二十上、大正蔵3, 725b9.

出家者と出会って「これ真なり」という喜びが起こったという。これはこれまでの自分の欲望を満たす喜びということとは異質の喜びである。「真なり」とは、ほんとうのものに出会ったということであり、ほんとうに信じられるものがあった、という喜びである。

 

我われは何を本当に欲しているか

ここで欲望を否定し、それとは別の真実を求めると解することもでき、それが仏教であるというとらえ方もできるが、それは拙速である。欲望の内容を確かめるということから始めたい。そもそも我われは何を欲望しているかということを普段確かめることは少なく、むしろそれは前提として、それをいかに手に入れるか、いかに実現するかということばかり考えがちである。そのことについて、エーリッヒ・フロムは『自由からの逃走』においてこのように指摘する。

近代人は、どちらかといえば、あまりにも多くの欲望をもっているように思われ、かれの唯一の問題は、自分がなにを欲しているかは知っているが、それを獲得することはできないということであるように思われる。われわれの全精力はわれわれの欲するものを獲得するために使われる。しかも大部分のひとは、この行為の前提、すなわちかれらが自分の本当の願望を知っているという前提を疑問に考えることはない。かれらは自分の追求している目標が、かれら自身欲しているものであるかどうかということを考えない。 かれらは学校ではよい成績をとろうとし、大人になってからは、より多くの成功、より多くの金、より多くの特権、よりよき自動車を求め、あちらこちらに旅行し……などしようとしている。しかもこのまったく狂おしい行為のただなかで立ちどまって考えるならば、つぎのような疑問が心に浮んでくる。「もしこの新しい職をえたならばもしこのよりよき自動車をえたならば、もしこの旅行をすることができたならば――それはいったいなにごとであろうか。それはどんな役に立つのだろうか。これらすべてのことをのぞんでいるのは、本当に私であろうか。私は自分を幸福にしてくれると予想され、しかもそれに到達した瞬間巧みに私をはぐらかすような目的を追っているのではなかろうか」
(中略)
しかもこれらすべてのことから、近代人は自分の欲することを知っているというまぼろしのもとに生きているが、実際には欲すると予想されるものを欲しているにすぎないという真実を漠然ながら理解することができる。
このことを認めるためには、ひとが本当になにを欲しているかを知るのは多くのひとの考えるほど容易なことではないこと、それは人間がだれでも解決しなければならないもっとも困難な問題の一つであることを理解することが必要である。(エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』(p.277-278))

「到達した瞬間巧みに私をはぐらかすような目的を追っているのではなかろうか」「近代人は自分の欲することを知っているというまぼろしのもとに生きている」このように指摘する。これはこれまでの我われの文脈から言えば「老病死で崩れるような意味を追っている」あるいは「老病死で崩れない意味を知っているというまぼろしのもとに生きている」といえるだろう。老病死で崩れるような「諸行」を意味としてつかもうとしているといえる。

さらにいえば、人間はそれを「何ものか」として求めている。このことは第8回と第9回でもう一度確かめるが、人間はある立場から、諸行を求める。例えばあるときは医師として諸行を求め、あるいは母として諸行を求める。しかしそれが老病死によって崩れ、一人の「裸の人間」となったとき、人間はいったい何を求めるだろうか。

完全な閉じ込め状態(TLS)となったら精神的な死を意味し、生きていくことはできないと言った照川氏は、「人はパンのみで生きるのではない。意思の疎通があって生きられる」と述べられた。「人はパンのみで生きるのではない」という言葉は、『新約聖書』の「マタイの福音書」第4章第4節の言葉であるが、これには本来続きがある。

People do not live by bread alone, but by every word that comes from the mouth of God.
人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言(ことば)で生きるものである。(マタイの福音書4:4)

私たち人間は、どんな「言葉」「意味」を確かな支えとして生きているのかということを問うていると言える。仏教の文脈の中では、「パン」という「諸行」を喜びとしていた者において、その喜びが崩れたとき、何が真に依り所になるのかということであり、先に確かめたように、人間は一人の「裸の人間」として何を求めるのかという問いでもある。「神の口から出る一つ一つの言(ことば)」とは、真実を示す言葉であり、それは「裸の人間」が、そのままに生きていける言葉だと言えるだろう。人間は、そのような真実を示す言葉ではなく、自らを傷つけ、生きていけなくなるような言葉を依り所にしていないかと問うているといえる。「裸の人間」が生きていける言葉とは、すなわち「老病死で崩れないような人生の意味」ということができるだろう。

 

苦悩する心と真実を求める心

逆に、そのような「老病死で崩れないような人生の意味」などない、「真実」などというものはないとしたらどうだろうか。確かな「生きる意味」などないのだとする態度もありうる。真実などないのであるから、疑う必要もない。信じるものがないと苦しむ必要もない。これが仏教の説く所だと誤解されて捉えられることもある。しかし、すべて無意味であり、苦しみも喜びも無いとするのは、六師外道の説く所であることは第2回に確かめたことである。しかもそれだけでなく、人間には「現に苦しみがある」のである。老病死を前に立ちつくして絶望し、最愛の人を亡くし悲哀する。人間にとって、意味がなくなるということは最も畏れるべき事態であるとも言える。否定するものを誤ると、それは人間性ごと失うことになるのではないだろうか。

あるALS患者は、あるとき「石になっていくみたい」と言われた。この言葉は身体が動かなくなってしまう恐怖というだけでなく、苦しむことも悲しむこともできない、人間として生きられなくなることを畏れた言葉と受け止めるべきであると考えている。このことは、アウシュビッツ強制収容所を経験したフランクルが『夜と霧』で述べることを通してさらに確かめたい。

ドストエフスキーはかつて、「私は私の苦悩にふさわしくなくなるということだけを恐れた」と言った。

もし人が、その収容所内での行動やその苦悩や死が、今問題になっている究極のかつ失われ難い人間の 内的な自由を証明しているような、あの殉教者的な人間を知ったらならば、このドストエフスキーの言 葉がしばしば頭に浮かんでくるに違いない。彼等はまさに「その苦悩にふさわしく」あったということが 言えるのであろう。彼等は義しき苦悩の中には一つの業績、内的な業績が存するということの証しを立 てたのである。人が、彼から最後の息を引き取るまで奪うことができなかった人間の精神の自由は、また 彼が最後の息を引き取るまで、彼の生活を有意義に形成する機会を、彼に見出さしめたのである。(V.E.フランクル『夜と霧』(p.167))

アウシュビッツでは、さまざま人間的なものが剥ぎ取られていく。番号で呼ばれ、あらゆるものが奪われ、いつ殺されるかわからない絶望の中で、どこに人間というものが残るのだろうかと問われる。そんな中で、「バラックの中をこちらでは優しい言葉、あちらでは最後のパンの一片を与えて通って行く人間の姿を知っている」といい、人間であろうとする人たちがいたことをフランクルは記している。どこで人間というものを確かなものとして、持ち続ければいいのかという問いの中で、「その苦悩にふさわしく」あった人たちがいたというのである。人間であることを問い続け、その苦悩に応え続けた人がいたということである。

このことは、アレン・ネルソン氏のエピソードを通して確かめることができる。ネルソン氏はベトナム戦争で戦ったアメリカ人である。国のために戦えるのは誇りだと思い海兵隊に入隊しベトナム戦争に参加した。たまたま防空壕に逃げ込んだときにベトナム人女性の出産に立ち会い、ベトナム人も同じ人間だ、もう人殺しはしたくないと隊を離れる。ところがその後も毎晩恐ろしい夢にうなされる。あるとき小学校でベトナム戦争の話すことになったとき、一人の少女との出会いをきっかけに、自らの苦しみと向き合い、PTSDの治療を受ける。その中で自らの暴力性に気がつき、自分が殺した数限りない人たちのことが浮かび、二週間泣き続けた。

自らの暴力性がなくならないことに苦しみ、悩んでいることをお寺の住職に話されたときのことである。沈黙の後、住職は「苦しんでいるあなたを信頼する。2週間泣き続けたあなたを信頼する」と言われた。そのことがネルソンさんの支えになったという。

このネルソン氏の苦しみは、真に人間であろうとしたらこその苦悩であろう。苦しむという形で、真実を求めているのである。そこに人間の人間たるゆえんがあるのではないだろうか。

このことについて、宮下晴輝先生はこのように述べる。

なぜ苦しむのか。それは真実を求めているからです。苦しみそれ自体を支えているのは、真実を求める心なのです。苦しむという形で、私たちは、真実を求めているのです。何も信じられないという苦しみのただなかに、真実を求める心が現にあると認めざるをえません。

この真実を求める心が自らの内に明らかにあるのだと認めることが、ただ一つ信じられるものなのです。そして自らにその心を認めることができれば、他者の上にもそれを認めることができます。それは同時でしょう。
(宮下晴輝『はじめての仏教学 ―ゴータマが仏陀になった』p. 70)

「苦しむという形で、私たちは、真実を求めている」そこに人間が人間として生きるということを支えるのは何か、ということ確かめる重要な鍵があると考えられる。つまり、自己の欲望の外に、人間が人間として生きることを全うしようとする「真実を求める心」と、その心を生きようとする人物を認めることができるということである。「真実を求める心」があると信じる。そこに「信仰によって激流を渡る」という「信仰」、出家者と出会って「これ真なり」と言った「信」があるといえる。

苦悩というところに人間が人間である所以がある、ということをさらに確かめながら、真実を求める心があるということを信じて歩み出したという、その歩みはいかなるものであったかを確かめていきたい。

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