第9回 人間であるが故の苦悩(2) —自己とは何か

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自己とは何か
要旨

私が私でありたいと求める我われは、何を自己として求めているのか。我われはどこにでも自己(我)を求める心がある。それははたして自己というにふさわしいのかということを、「無我」の教説では「五蘊」を通して確かめる。無我とは自己というものがどこにもないということいおうとしているのではなく、どこにでも自己を求めようとする渇愛の心を問題にしている。それはあなたが自己だと思っている自己ではない、ほんとうの自己を明らかにせよという問いかけである。自己とは何かという問いは、ほんとうの人間同士のつながりとは何か、ほんとうに人間として生きるとは何かを問い直すことでもある。

 

自己とは何か

我われは、私が私であること、私であることの意味を渇き求めているということを前回確かめた。老病死によって、これこそ私であると信じてきたものが崩れ、こんな私は私ではない、と「私が私であること」の意味を失ったとき、人間は生きていくことができなくなるということがある。では、いったい私たちは何を自己として求めているのだろうか。

あるターミナルケアの現場で、癌の末期の患者にその人がしてきた仕事に関することができるような環境をつくる、ということを聞いた。ピアノの先生ならピアノを弾けるように、大工さんなら工作ができるように、などということである。それが「その人らしさ」を取り戻すなどと言われる。しかし仕事がその人の自己だろうか。逆にその仕事を失えば自己を失うのか。そのように、何が自己かということを、仏教では「五蘊」(色・受・想・諸行・識)によって確かめる。それが、最初の説法である四聖諦の次に説かれる第二の説法であり、「無我」の教説である。

 

「無我」の教説

そこで世尊は、五比丘たちに言った。

「比丘たちよ、色は自己(ātman; atta 我)ではない。比丘たちよ、もしこの色が自己であるとするなら、この色は悩みをもたらすことはないであろうし、また色に対して私の色はこのようであって、私の色はこのようであってはならないということができるであろう。しかし比丘たちよ、色は自己ではないが故に、それ故に色は悩みをもたらし、また色に対して私の色はこのようであって、私の色はこのようであってはならないということができないのである。

比丘たちよ、受は自己ではない。… 想は自己ではない。… 諸行は自己ではない。… 識は自己ではない。比丘たちよ、もしこの識が自己であるとするなら、この識は悩みをもたらすことはないであろうし、また識に対して私の識はこのようであって、私の識はこのようであってはならないということができるであろう。しかし比丘たちよ、識は自己ではないが故に、それ故に識は悩みをもたらし、また識に対して私の識はこのようであって、私の識はこのようであってはならないということができないのである。」

「比丘たちよ、これをどう思うか。色は常であるか無常であるか。」「無常です、尊師よ。」「では無常なるものは、苦であるか楽であるか。」「苦です、尊師よ。」「では無常にして苦であり変化する性質のものを、これは私のものである、これは私である、これは私の自己であると見るのはふさわしいことであろうか。」「そうではありません、尊師よ。」

(『パーリ律 大品 無我の教説』(Vinaya-piaka, Mahāvagga, 1.6.38-47 Anatta-dhamma-pariyāya, vol. 1, pp. 13-14)、他『相応部経典 五比丘』(Sayutta Nikāya 22.59 Pañca, PTS vol. 3, pp. 66-68)など。『大乗の仏道 資料編』p.78-80より一部抜粋)

先に確かめたように、「自己とは何か」という問いは、ただ好奇心から問うてみたというものでなく、人間の生活が行き詰まったところに現れる。私が私であること崩れ、私が生きられなくなるところに現れた問いであるから、「五蘊」とは人間の構成要素ではなく、生活経験として捉えるべきであろう。

 

「色」とはいろや形のあるものである。自分の身体を含め、外に見えるものすべてといえる。仏教では色・声・香・味・触の五境としてまとめられ、眼に見えるもの以外にも耳や鼻、舌、触覚などで捉えられるものも含む。私たちはそれら生活経験の中で捉えられる形あるものを、私の喜びとしているということである。しかしそれを思いのままに手に入れそれを保持できるわけではない。欲しいものを手に入れて喜び、失って悲しむ。自分の身体であればなおさらである。一部を欠いただけですべてを失ったような絶望に陥ることもある。『無量寿経』にはこのように述べられる。

田あれば田を憂う。宅あれば宅を憂う。(中略)

田なければまた憂えて田あらんと欲う。宅なければまた憂えて宅あらんと欲う。  (中略)

適一つあればまた一つ少けぬ。これあればこれ少けぬ。斉等にあらんことを思う。適具さにあらんと欲えば、すなわちまた糜散しぬ。かくのごとく憂苦して当にまた求索すれども、時に得ること能わず。(真宗聖典 p.58-59)

田があれば、なくなるのではないかと悩み、田なければ、なぜないのかと悩む。有ることに悩み、無いことに悩む。また最も古い時期のものといわれる『ダンマ・パダ』にはこのようにある。

46 この身は泡沫のごとくであると知り、かげろうのようなはかない本性のものであると、さとったならば、悪魔の花の矢を断ち切って、死王に見られないところへいくであろう。
47 花を摘むのに夢中になっている人を、死がさらって行くように、眠っている村を、洪水が押し流して行くように、──
48 花を摘むのに夢中になっている人が、未だ望みを果たさないうちに、死神がかれを征服する。

自分の外にある自己ではないものを自己であるとして追っているうちに、自己の人生に満足しないままに死んでいくということであろう。そういう「色」は果たして自己というにふさわしいかどうかと問うのである。

 

「受」は、快不快といった感覚である。みな当たり前のように、不快なことは避けたい。病院では、病気の末期などで、家族の方が「苦しまないように最期を迎えられるように」と希望されることが多い。亡くなるときも苦しまずに安らかでしたというと残された者は安心する。「私である」ということを快なる感覚に求め、不快なる感覚を避ける。しかし老病死を生きるということは不快と隣り合わせであり、自己の思いどおりにならない。そんな快か不快かといった感覚である「受」は、果たして自己というにふさわしいかと問う。

 

「想」は言葉による表象である。我われは物事を言葉で捉えるが、同時に言葉に縛られる。暗闇で縄を見たとき、ほんとうは縄であるのに「蛇」であると認識すると、それによって怯える。認知症の人の訴える声を聞くとき、それを「認知症だから」とみると、「人間として」の問いに気づけない、ということを第3回で確かめたが、それは「認知症」という言葉による表象に縛られているといえる。しかし自分自身に対して同様のことをする。「私はこうだからだめだ」「もっとこうありたい」という言葉の中で「私である」ということを考える。そんな言葉でとらえる「想」は、果たして自己というにふさわしいかと問う。

 

諸行

「諸行」は広い意味では五蘊全体を含むが、これはすでに第5回で確かめたように、形作られたものである。仕事、能力、社会、家庭、名誉、さまざまな形成されたものを「私であること」として、それを意味あるものとし、喜びとしている。例えば、世間での評価を気にするということがある。他人からの評価を気にして生きることが自分自身を生きることではないはずであるのに、それを大事なものとしているということがある。あるいは我われは能力を私のものだと捉えているが、逆に今までできたことができなることは、私であることを失うわけではないのに、能力を大事にしている。あるテレビ番組でのことである。祖母のつくってくれる卵焼きが大好きだったが、祖母は認知症になり、黒焦げの卵焼きしか作れなくなった。おばあちゃんが変わってしまったと思っていたが、迷子の子どもを助けようとするおばあちゃんの心に触れて、能力におばあちゃんがあるわけではないことに気づく。

そのように諸行とされるような、意味あるものとして形成されたものは、それを失ったら私ではないというほどに信頼をおいているが、それは果たして自己というにふさわしいかと問う。

 

「識」は知る心である。何かについての意識である。この識も自分の思いの通りにできるわけではない。我われは言葉をとおして知り、諸行を通して知る。十二支縁起でも、諸行によって識ありという。日本人は日本語をとおして考えるし、日本社会や地域社会、さまざまな共同体の考え方の影響も受ける。流行によって良いと思う髪型や服装はかわる。新型コロナ感染を甘く見ていた人が、著名人の死亡の知らせを聞き、急に危機感をもつということもある。メディアが胃瘻をつくって栄養を補って生きていくことについて、意味なく延命されているというイメージを植え付ければ、胃瘻をしたくないという意思にもつながる。そんなふうに、知るということ、何かについての意識は果たして自己というにふさわしいかと問う。

このように、色・受・想・諸行・識の五蘊の一つ一つについて、自己というにふさわしくないということを確かめている。なぜここで五蘊は「自己ではない」ということがわざわざ述べられるかといえば、我われにはどこにでも自己(我)を認めようとする心があり、五蘊を「自己である」として喜び、あるいはそれらが失われることを「自己が失われた」といって苦しむ在り方を問題にしているといえる。五蘊には自己と見なすにふさわしいものはないにもかかわらず、そこに自己を求めるという「渇愛」に苦しみの原因を見たのである。五蘊は諸法といわれ、諸法のどれも自己ではないという意味で諸法無我という。このように無我の教説は渇愛の心を問題にしているのである。

「比丘たちよ、このように見る多聞の聖弟子は、色にも厭離し、受にも厭離し、想にも厭離し、諸行にも厭離し、識にも厭離する。厭離して離欲する。離欲した後に解脱する。解脱したときに、私は解脱したという智が生ずる。生は尽きた、梵行は成就した、なすべきことはなしおわった、ふたたびこのような事態をまねくことはないと知る、と。」

このように世尊は語った。五比丘は得心して、世尊の語られたことを喜んだ。そしてまたこの教説が説かれたとき、五比丘の心は、なにものにも依ることなく、諸の漏から解脱した。

そしてその時、世間に阿羅漢は六人となった。

「諸の漏から解脱した」とは、渇愛による苦しみを乗り越えたということである。自己(我)としてふさわくないものを自己(我)だとしてつかみ(我執)、渇き求める心(渇愛)を問題にしている。したがって、苦しみから解放されるということは、「我」から解放されることであるという。さらにいえば、「苦からの解放された私」をまた自己としてつかむのが我われであるから、「苦しみから解放されたいという我」から解放されることであるといえる。

 

「自己がない」のではない

しかし、「無我」といっても、自己(我)としてふさわくないものを自己(我)としてつかみ、それを渇き求める渇愛を問題にしているのであって、世界のどこにも「自己」というものが存在しないということを言おうとしているのではない。『パーリ律 大品』の「無我」の教説のしばらく後に、釈尊が林で休息していたときのエピソードがある。青年たちが財布を奪って逃げた女性を探し回り、女性の行方を釈尊にたずねたとき、釈尊はこのように言う。

「若者たちよ、汝らはこれをどう思うか。女を探し求めることと、自己を探し求めることと、汝らにとってどちらが大事なことか」と。 「尊師よ、われらの自己を探し求めることこそが、われらにとって大事です」と。 「若者たちよ、では坐るがよい。汝らに法を説こう」と。(『パーリ律 大品 地位ある友人たちのこと』(Vinaya-piṭaka, Mahāvagga, 1.14 Bhadda-vaggiya-sahāyakānaṃ vatthuṃ, vol. 1, pp. 23-24), 『大乗の仏道 資料編』p.99-101より一部抜粋)

ほんとうの自己を明らかにすることが大事であるという。もとより、自己はないといっても、現に苦悩している自己がある。その自己がいかに生きるかが問題である。あなたが自己だと思っている自己ではない、自己があるのではないか、そのほんとうの自己を明らかにせよという問いかけである。あるいは、『大般涅槃経』には、次のようにある。

それ故に、アーナンダよ、ここで汝らは、自己を灯明とし、自己をよりどころとし、他をよりどころとせず、法を灯明とし、法をよりどころとし、他をよりどころにせず住するがよい。(長部部経典 16, Mahāparinibbānasuttanta §6.7; Dīgha Nikāya, PTS vol.2, pp.155-156; 『大乗の仏道 資料編 p.173』)

自己をよりどころとするということと同時に、法をよりどころとする、と述べられる。ここでいう法とは、自己でないものを自己としている我われの在り方を明らかにする智慧ということができる。そのような法をよりどころととして、ほんとうの自己をあきらかにせよという問いかけである。

我われは、自己について語るとき、たとえば「私は学生である」「私は○○な性格だ」と表現しても、それで自己を語ることにならないことは日常でも感覚することであるし、他者から「あなたの悩みは○○である」といわれると、私の悩みを何もわかっていないと感じることだろう。いかに自己の本質、私が「人間として生きる」ということ全体を語ろうとしても語り尽くせないものが残る。それに対して言葉を尽くして明らかにしようとするのが仏教の思想の歩みであろう。苦悩を明らかにしようとする十二支縁起に始まり、人間として生きるということを成り立たせているものを明らかにしようと、説一切有部では六因、四縁、五果、瑜伽行派においては分別自性縁起、阿頼耶縁起などという形で追求される。

しかしいずれにしても、それらの思索は、我われの日常における自己の追求のように「自己」を限定していく学びではなく、自分が知らない「自己」に気づいてゆく自覚の歩みであり、「自己」を開いていく学びである。我われが人間として生きている自己は、本来、無限のつながりのなかで成立するいのちを生きるものであるが、それを我われは「私」「私のもの」とつかみ限定してゆく。関係性という点からみれば、「自己」を限定するという問題は、自己を束縛するのみならず、それは同時に「他者」を限定し、自と他を分断していくという問題でもある。このことは「孤独」や「差別」の問題と関係するといえる。

自己をどのように学ぶのか、どんな私が自己を求めるのかということは、私が生きるということと同時に、どんな関係性の中で生きるかという問題でもある。「自己とは何か」という問いは、「ほんとうの人間関係とは何か」という問いでもあり、ほんとうに人間として生きるとは何かを問い直すことである。

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