第15回 ほんとうの希望とは何か(3) —いのちの根源的連帯を求めて(終)

テーマ
これまでのまとめ
要旨

苦悩を乗り越えるということは、単に苦悩を直接的に取り除くことではなく、苦悩を共にするということである。苦悩を無くそうとする心は、かえって現実を生きる自己自身を見失い、自我の中に座り込んでしまう。人間であるがゆえの苦悩を抱えているにもかかわらず、そこに留まらず個人的な問題へと滑っていく。一個人の問題ではなく、一人の人間としていのちをどう全うするかということが問題になっているからこそ、その問題をともに苦悩し、ともにいのちを確かめ合い、ともに喜ぶことができる。自己の苦悩の底からの問いにほんとうに応えうる、敬うべきものに心を向けて、一人の人間として「生きる」ということをともに学ぶ。そのことが、ほんとうに人間同士が、いのちの根源でつながるような歩みとなっていくのではないか。

 

苦悩を知らずに

この講義では、実際に医療現場で投げかけられた苦悩の言葉と、それを私自身がどう受け止めようとしたかというところから始めた。苦悩に対する私の態度は、当たり前のようにして、苦悩があるのはマイナスであり、苦悩がないのがプラスであり、プラスを求め、マイナスを厭うというあり方であった。しかし、その在り方は、苦悩を無意味なものとして見ないことにし、そのことが他者の苦悩に寄り添うことを妨げていた。「あなた自身はどうなのか」という問いを避けるということは、他者の苦悩に寄り添うことを妨げるのみならず、苦悩する自己自身を生きるということを妨げていることを学んだ。苦悩を単に直接的に取り除くという態度ではなく、現実を生きることを通して、その苦悩の内実、苦悩の意味を確かめ、人間が人間として生きるとはいかなることかを学ぶ。それが仏教のとった態度であり、我われもそれに習って学ぶということを軸とした。

現実の医療現場の課題を突き詰めて確かめたとき、仏教の基本的問題領域である「老病死の苦悩」の課題と重なる。これまで生きる意味であると信じてきたものが老病死によって崩れ、周りを見渡してみても生きる意味だと信じられるものが何も無い。生命は生きているのに生きることを喜べなくなる。そんな疑いの真っ暗闇の中をどう生きていけばよいのか。そういう苦悩が仏教の出発点である。生命は生きている、しかし”いのち”が生きられない、私が私として、人間が人間として全うしていくことができないという問題である。

そして出家の課題は、その苦悩の中からいかに歩み出すかということであった。出家の意味は、自分の思いどおりに欲求をみたす在り方に行きづまる中で、その苦悩の中に、「人間が人間として生きるとはいかなることか」と、「ほんとうの自己を求める心」があることを信じて歩み出したことにあった。そして、苦行をやめて中道を歩み出したことの課題も、意味があると自己をつかむのでなく、意味がないと自己を捨てるのでもない、ほんとうの自己を求めて歩むことにあった。そうして仏道を歩みはじめた者もまた、流転生死を厭い、涅槃を求めるという中で、個人的な仏道に陥り、自分免許の覚りを求め、それをつかんだといって喜び、つかめないといって苦しむという、自分の思いどおりにしようとする心が問題となる。そういう心を「分別」ということばで確かめるのが、「菩薩」の課題である。ほんとうの自己を求めるということが、いつしか、自我に縛られ自己を限定していくという問題であった。したがって、出家の課題も、中道の課題も、菩薩の課題も、その根本にあるのは、自己を見失った者が、ほんとうの自己を回復するという課題である。ほんとうの自己を求める心は、仏教のことばでいえば「菩提心」である。

「私が私でありたい」とほんとうの自己を求める心は、縁起の観察では苦しみの原因である「渇愛」とまず受け止められる。人間は喉が渇けば水を求めるように「私が私でありたい」ということを求めるということを第8回で確かめた。したがって、苦しみの原因であるが、人間が人間として生きることの根本でもある。「私が私でありたい」と、人間が人間としてほんとうに全うするとはどういうことかを求める心は、人間として精一杯生きることでもあるのである。しかしその心が、自分の思いどおりに、自我の欲求を満たす心となったとき、その心が行きづまり、自己を見失うという問題を孕んでいる。私たちは何を依り所として求めているのかが問題である。自己を回復し、自己自身を生きられるような、ほんとうの「菩提心」とは何かという、「菩提心」の内実が問題となるのである。

 

出会えない自分

前回の第14回に至って、出会いによって歩み出したという人間にとって重大な事実を確かめた。しかし、この期に及んでも、その「出会い」ということを自分のものとしてつかみ、「出会えない」という事実を厭い、傷つけるという、自我(自分の思い)に行きづまるという問題を、再び繰り返すのである。

人間が人間としていのちを全うしていくことができないという、人間であるがゆえの苦悩を引き受け、苦悩を乗り越え、自在にいのちを生き、いのちを全うしたのが仏陀である。仏陀に出会うということは、自我が行きづまった絶望の中で、その人間としての苦悩が響き合い、自我の関心を超えて、「あなたのような仏陀になりたい」と、あるべき人間像に出会うということである。したがって仏陀に出会うということは、外に敬うべき人間の出会うということであり、同時に内にほんとうの自己に出会うということでもある。出会いによって自我が破られた先に、ほんとうの自己に出会っていくのである。

しかし、そんな仏との出会いを、またある種の結論としてつかむということが人間にはおこる。すると今度は、「仏と出会った」といって座り込み、逆に「仏と出会えない」といって、出会えない自己の在り方から目を背けることになる。「仏と出会えない」ということについて、第14回で取り上げた邪名外道ウパカの物語を紹介しながら、宮下晴輝先生はこのように述べる。

出会っていながらも出会い得ない事態を物語るものである。わたしたちもまた、頭を振りながら去っていくウパカのようである。時に感動したことばも生活が変われば失せてしまう。求めているようだけれども、出会っても出会っても実ることがない。このようなわたしたちがいま何を問われているのか。
「生活の中で念仏するのではなく、念仏の中で生活するのである」とわたしたちは教えていただいてきた。
生活現場がどんなに変わっても、変わることなく消え去ることのないものに心をまっすぐに向け鍛錬することが、わたしたちの出会いを成就することになるにちがいない。(「ああ、もう滅びそうであった」『崇信』2006年11月号巻頭言)

「求めているようだけれども、出会っても出会っても実ることがない。」という自己の在り方を確かめられる。我われは「生活の中で念仏する」つまり自分の都合、自分の思いで念仏する。そうではなく「念仏の中で生活する」つまり仏仏相念、仏と仏が生かし合ってきた歴史の中に生活を位置づける。ほんとうの意味で仏に出会えるのは仏だけであり、真の念仏は仏だけができる。したがって、仏と仏が生かし合ってきた歴史を仰ぐしかない。「仏と出会うということがいかなることか」ということを学ぶことは、どこまでも「仏と出会えないような在り方をしている自己」を明らかにしていくことでなければならない。

 

「仮」の仏弟子

親鸞が「菩提心」を厳密に確かめているのは、そのような問題を背景としていると受け止められる。『教行信証』「信巻」の真仏弟子釈の引文において、

『大経』に云わく、「おおよそ浄土に往生せんと欲わば、発菩提心を須いるを要とするを源とす。」云何ぞ。「菩提」はすなわちこれ無上仏道の名なり。もし発心作仏せんと欲わば、この心広大にして法界に周遍せん。この心長遠にして未来際を尽くす。この心普く備に二乗の障を離る。もしよく一たび発心すれば、無始生死の有輪を傾く、と。(『真宗聖典』p.247)

と『安楽集』を引用する。ここに「発菩提心」ということが述べられるが、ここで親鸞は「須らく菩提心を発すべし」と読むべきところを「発菩提心を須いる」という読み替えをする。ここに「発菩提心」を問題とする親鸞の姿勢が見える。菩提心を自ら発すといったとき、その菩提心はほんとうに真なるものかが問題である。「真の仏弟子」として、真実を求める仏道を歩むという言いながら、自己の人生をそのままに喜ぶことができないならば、その菩提心は「仮」ではないか。そういう問題が「仮」の仏弟子の問題として提示されていく。「仮」ということは、仏道を歩む以前の問題としては、「こうあるべき私」として自分でつかんだ「仮」の自己を「真」の自己としてしまうということを、第9回で確かめた。その「仮」を「真」としてつかむという問題は、仏道を歩み出したあとにおいても残るということである。真実を求めているようで、善い自己を求め、悪い自己を排除するという心(親鸞は「罪福信」という)の中で「自分の思い」に行きづまる在り方は、それほど根深い問題であるといえる。

そのことは『歎異抄』第九章において、

念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは、いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん」もうしいれてそうらいしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。(『真宗聖典』p.629)

といい、念仏をもうしても喜べないということを問題にする。このことは、『教行信証』「信巻」において取り上げられる問題も同質のことがらである。『浄土論註』を引用して、

「如彼名義欲如実修行相応」とは、かの無碍光如来の名号よく衆生の一切の無明を破す、よく衆生の一切の志願を満てたまう、しかるに称名憶念あれども、無明なお存して所願を満てざるはいかんとならば、実のごとく修行せざると、名義と相応せざるに由るがゆえなり。いかんが不如実修行と名義不相応とする。いわく如来はこれ実相の身なり、これ物の為の身なりと知らざるなり。(『真宗聖典』p.213-214頁)

と述べられるように、名号はよく衆生の一切の志願を満たすというのに、なぜ満たされないのかという問いに対して、「不如実修行」であり「名義不相応」であるからだという。私は「仮」を依り所として、その結果行きづまるような在り方をしている。そんな我われのために、「仮」を依り所としている自己の在り方を知らせる智慧として如来は現れているのに、その智慧を聞こうとしないのが我われであるという。

そういう「仮」なる在り方について、おなじく「信巻」において、

外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、中に虚仮を懐いて、貪瞋邪偽、奸詐百端にして、悪性侵め難し、事、蛇蝎に同じ。三業を起こすといえども、名づけて「雑毒の善」とす、また「虚仮の行」と名づく、「真実の業」と名づけざるなり。もしかくのごとき安心・起行を作すは、たとい身心を苦励して、日夜十二時、急に走め急に作して頭燃を灸うがごとくするもの、すべて「雑毒の善」と名づく。この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に求生せんと欲するは、これ必ず不可なり。(同上p.215)

と述べられる。ここでは、「中に虚仮を懐いて」いるような我われのおこなう行は「雑毒の行」であるとし、その雑毒の行を回して、浄土に生まれたいと欲しても、「これ必ず不可なり」という。菩提心は人間が人間であることを求める根本であるが、菩提心が真でなければ、結局「仮」の菩提心が行きづまるというのである。

しかし親鸞は、その菩提心を真なるものにせよというのではない。真面目に突き詰めれば突き詰めるほど、自己の菩提心は仮でしかありえないということに、親鸞は悲しむのである。それゆえ、

誠に知りぬ。悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずべし、傷むべし、と。(同上p.251)

と自らを悲歎するのである。この「悲歎」が大事な意味をもっている。自己の菩提心は仮でしかありえないというところまで悲しむことがなければ、「仮」である自己を「真」としてしまう。それを「偽」という。このように、「仮」を「真」とするような「偽」の在り方をあきらかにし、「仮」を「仮」と見るところに、揺るがない立ち上がっていく場所があるといえる。

初回や第8回の授業で樹下観耕の物語を紹介し、青年時代の釈尊は、衆生の苦悩を目の当たりにし、その悲哀にとどまろうとした。悲哀、悲歎の心が真実に出会っていく。仏教の思索の態度は一貫して、そんな衆生の苦悩に痛みを抱いて歩むというところにあるといえる。

 

苦悩に痛みを感じて

これまで14回にわたり、仏教思想の思索の背景にある課題を、実際の医療現場の声を通して確かめてきた。仏教の思索の中から紡ぎされたさまざまな言葉は、人間が真摯に苦悩に向き合う中から生まれたものである限り、人間が生きるということに生きてはたらくものであるはずである。したがって、言葉の背景にある課題を明確にし、実際の医療現場の声の奥にある苦悩を確かめることを通して、仏教の言葉が、私自身が生きるということにとってどういう意味をもつかという視点で学んできたつもりである。

しかし我われは、すぐに現実の生活を見失い、医療現場の苦悩を目の当たりにしても、その苦悩の痛みを忘れて、つかんだ結論だけを握って座り込んでしまう。そしてまた個人的な思いへと入り込み、ほんとうの意味で苦悩を共にするということができないでいる。そして現実の生活の苦悩の中から紡ぎ出された、生きてはたらくはずの仏教の言葉も、そのはたらきを失ってしまう。

2010年、真宗大谷派の修練道場の道場長であった渥美雅己先生は講義の中でこのように語られている。

・・・さらに曾我先生は『異なるを歎く』において、機の深信の自覚を語られ、「口先だけの説法」であり「自分の頭の分別」に陥り、教えが自分の生活になっていない深い懺悔を表白されます。人間の根っこ、心の奥底に届く教えとして、うけとめられていなかったとのことでしょう。教えを理知、理性によってのみ理解し、生き生きと身も心も発動される、まことの響きを感じとれず、現実の生活の姿を見失って、気づけなかった慙愧であると思います。それほど現実の群生海は感じとれないということでしょう。これらは浄土の真宗、他力によって開かれる世界です。「他力は、自己を否定するのものではない。かえって自己を成就するものである。自己は自力では成就しないのである」(安田理深)といわれます。そしてつまり、修練を通して、我われの聞法姿勢の確認として、たとえ未熟であり稚拙であろうとも、けっして粗雑であってはならない、との具体的な生活の中での教示として、私は受けとめるものです。

「たとえ未熟であり稚拙であろうとも、けっして粗雑であってはならない」と呼びかけられる。知識が無いこと、文学や哲学の素養がないこと、教学を知らないこと、といった未熟さを恥じるよりも、もっと恥じなければならないことは、仏法を聞く姿勢である。現実の生活から紡ぎ出される言葉に、どこまでも丁寧に向き合う中に仏法を聞いていかなければならない。

現実を生きる我われの苦悩に丁寧に向き合い、それを深く知るためには、それを知らせる智慧が必要である。したがって自己を深く知るということは同時に、仏陀の智慧の深さを知ることである。例えば第13回の授業で、私は患者さんのお母様によって、私のいのちの見方の愚かさに気づかされたことを述べた。気づかされた愚かさが深ければ深いほど、お母様のいのちの見方が深いということである。

智慧が目の前にありながら、その智慧をもつ仏陀に出会うことがないという我われの愚かさもまた、その愚かさを知らせる願いによって知らされる。愚かさに丁寧に向き合い、それを深く知るということは、仏陀に出会う場所に生まれ、自己自身を生きる人になってほしいと願う本願の深さを知ることでもある。先に挙げた『歎異抄』第九章の続きに、

よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもいたまうべきなり。よろこぶべきこころをおさえて、よろこばせざるは、煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。(『真宗聖典』p.629)

とあるように、仏仏相念の歴史、人々が生かし合ってきた歴史の中にあることはよろぶべきことであるはずなのに、それをよろこべないということは、かえって他力の悲願は我われのためであることがわかると『歎異抄』はいう。「よろこべない」という事実のなかにかえって重大な意味があることを見る。弥陀の本願ということは、私の愚かさをどこまでも深く気づかせようと願う願いが表されたものであり、まさに私のために表現されたものであるということであろう。「よろこべない」からこそ深く出会っていくことがあるのである。

このように、苦悩を乗り越えるということは、単に私の苦悩や愚かさを直接的に取り除くことではない。人間であるがゆえの問題を共有し、同じ苦悩をともにする者と、ともに歩むということである。しかし我われはその人間であるがゆえの問題に留まることができず、それを避けて個人的な関心に滑っていくのである。安田理深先生はこのようにいう。

自分だけ苦しみが無くなる、ということが宗教の問題ではない。苦しみを共にすると言うことが宗教の解脱なのです。安楽ということは、苦しみが無くなることではない。苦しみを共同する。共に苦しむという、そこにもう苦悩はないのです。そして、それが真に苦悩しておることなのです。
問題が無くなることが信仰ではなく、問題に堪えていくのが信仰です。問題に堪える自己ですね。「現前の境遇に落在せるもの」(清沢満之)は、そういう意味がありますね。(安田理深『信仰的実存』)

人間であるがゆえの苦悩にともに向き合う、ということを支えるのが、その問題に応えるような信仰である。つまり自己の苦悩の底からの問いにほんとうに応えうる、敬うべきものに心を向けて歩むということである。一個人の問題ではなく、一人の人間としていのちをどう全うするかということが問題になっているからこそ、その問題をともに苦悩しともにいのちを確かめ合い、ともに喜ぶことができる。一人の人間として「生きる」ということをともに学ぶ。そのことが、ほんとうに人間同士が、いのちの根源でつながるような歩みとなっていくのではないか。(終)