現実の重さ

 もうすぐ百歳になろうかという方が介護施設から入院してこられた。もうしばらく寝たきりであった。食事が食べられなくなったから「原因を調べてほしい」ということらしい。少し耳を疑った。限りある生命は、いずれ手足も胃腸も脳も働きが弱くなり、いただいたものを還していく。原因も何も、人間というのはこうやって一生を終えていくのではないか。思いどおりにならないところを生きているのに、いつまでも思いどおりにできると考えるのは人間の傲慢ではないか。そんなことではどこまでも、思いどおりにならなかった、という不満のまま死んでいくことになるのではないか、と。

 そのようなことを「業」という言葉を通して教えるのが仏教だ、とすぐに落ち着きそうになるが、しかし児玉曉洋先生のこれらの言葉にはっとさせられる。

「もし我われが「罪業深重」という自らの業感なしに業について語るならば、理屈としてどんなに正しくても、その言葉は虚偽になってしまう」(『児玉曉洋選集第四巻』(以下『第四巻』)「真宗の宿業観試論」二一五頁)

「歴史的社会的な現実というものは無数の縁によって成り立っているのだから、自分の思いどおりにはなりませんよという。もしそれだけ言うのだったら、それはいわば一種の運命論です」(『児玉曉洋選集第十巻』(以下『第十巻』)「歎異抄に聞くIII」四四四頁)

命とはそういうものだ、その事実を受けとめよと、何か理屈で説明をしただけでは、運命論と変わらない、仏教ではなかったと気づかされる。

難病患者のご家族が、現実を受けとめきれず、何とか治ってほしいと新興宗教に嵌まる姿。あるいは、この子の病気の原因はこれに間違いないといって、大量の信頼性の乏しい”科学論文”を集め、荒唐無稽な理論を信じて効果のない治療に散財してしまう姿。そのような姿をしばしば見てきたが、ときにそれを非合理的だと蔑んでいたところがあった。しかし児玉先生は、

「現実に何か困ったことが起こったとすると、それは何代か前の先祖の霊が原因だからそれを鎮めるとか祈るとか、(中略)そういうことを非合理的だなどと簡単にしりぞけるわけにはいかない。なぜかというと、私たちの生きている現実というのは、いわゆる運命としか言いようのない重さをもった出来事が起こってくる。(中略)それは、私たちの単純な合理的思惟によっては納得することができない、いわば運命としか言いようのない出来事が、実際に起こってくるのです」(『第十巻』四一五頁)

と、生きている現実の重さを確かめられるのである。

そして、

「だからそれを、単に合理主義的に処理していくということではなく、かつまた、いわゆる運命論に陥ることもなく、その運命としか言いようのない出来事を受けとめて、しかもそれに煩わされずに、そこから自由になって生きていく道がどこにあるのか」(同上)

と、限定の中の自由、という問題を投げかけられる。そして「宿業」ということについて、

「人生というものは思いどおりにならぬものだ、みんな因縁のはたらきによるものだということを言っているのですけれども、それが主題ではなく、その思いと現実の動きのギャップによって苦悩している、そういう在り方からいかに解放されるかということが、本当の主題なのです」(同上、四四〇頁)

と、「宿業」という言葉の主題は合理的説明ではなく、苦悩からの解放であると押さえられる。

「「本願を信じる」の世界が開かれない限りは、わがままと区別のできない「自由」と、「運命」と区別できない「宿業」とが矛盾して、言葉上対立するわけです」(同上、四四六頁)

と指摘されるように、「本願」がはっきりしていないから、子の難病を治そうと祈祷する親(限定のない自由という夢想)と、事実を受け容れよと説教するお坊さん(自由のない限定という結論)がどうにも交わらない。

「決定的に歴史的社会的に限定されているその現実存在としての自己を、無条件に、つまりいかなる価値評価(善悪、好き嫌い)をも越えて、一切の恣意を切断して、今、ここで我として引き受けて立ち上がる勇気である。それは、「存在への勇気」である。この勇気、この自由は、「摂取不捨」の如来の大悲なくしては発り得ない。それ故にこそ宿業の自覚は、直ちに本願の信と一つに結ばれているのである」(『第四巻』二二九頁)

と、宿業は結論ではなく契機であることを教えられる。

合理的説明は、ただ結論に座り込ませるばかりである。かといって、思いで現実を変えようとしても、現実を避けるばかりで、かえって思いと現実の乖離に苦しむ。立ち上がるところは自己の事実しかないのに、どうにも思いに振り回される。ではなぜ、実際に、いかなる自己であろうとも、そこに立ち上がって歩んできた人間の歴史があるのか。それは「立ち上がる勇気」を与えるものと出会ってきたからというより他ない。しかもその出会いは、生きている現実の重さを感受するところにのみ成り立つのではないか。

[『崇信』二〇二二年二月号(第六一四号)「病と生きる(75)」に掲載]

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