薬がない

あまり話題になっていないのだが、実は今、多くの医薬品が供給不足に陥っている。先日薬剤師から、てんかんの発作を抑えるある薬剤が底をつきかけており、確保できる目処も立っていないため、他の薬剤に変更してほしいと言われた。これは大変深刻な問題であり、薬がないなら仕方がないでは済まない。てんかんは、薬剤の種類や量を細かく調整し、場合によっては血中薬剤濃度を測定しながら、発作が起こらないようにする。大きな発作は生命に関わるから、通常安定している人の薬剤を安易に変更することはしない。薬がないからといって変更し事故が起こったら、誰が責任を取るのか。

そもそも薬剤の供給不足の発端は、福井県のジェネリック医薬品(後発品)メーカーの不祥事であった。水虫などの治療薬に睡眠導入剤の成分が混入し、甚大な健康被害が出た。それを受けて、全国の医薬品メーカーの査察や自主点検により、富山県の大手を含む複数の後発品メーカーで製造工程の問題が発覚、各地で業務停止命令が出され、幅広い種類の医薬品の出荷が次々に止まる事態に至ったのであった。

もとはといえば、国が医療費を抑制するために後発品を推奨し、薬価の引き下げを繰り返してきたところに問題があるのだろう。製薬会社にとっては利益を上げなければならないが、薬価引き下げにより利益を上げづらくなり、製造工程の不備に結びついたと考えられる。そしてさらには、確かに製造工程の不備は問題であるが、一斉に業務停止命令が出されてしまったために、生命に関わる薬剤の確保にまで影響が出る事態に陥ったのである。他にもコロナ禍で海外から原薬が入りにくいことや、昨年十一月に大阪市の物流会社倉庫で起きた大規模火災の影響など、物流の問題も指摘されている。

このようにして、社会における様々な要因が重なり合って、目の前の患者さんに、必要な薬剤が処方できなくなっているのである。薬剤が使えない医者は無力である。いくらてんかんの知識があっても、発作を抑えることはできない。必要な薬が使えないという現状に憤りの気持ちもわく。しかし、だからといって薬を変更するように言った薬剤師に「薬を変更して何かあったらどうするのか」と怒るのか。仕入れられなかった医薬品の卸業者に怒るか。製薬メーカーに、果ては厚生労働省に怒りをぶつけるのか。そういう形で現状を是正するよう訴えることもときに必要かもしれないが、まず目の前にいる患者さんのためにどうすればよいかという具体的な問題意識を共有し、ともに心を痛めつつ考えなければならない。

その患者さんの治療にとっていかにその薬剤が必要なのか、よく薬剤師と話をした。そしてそのことを理解され共感された薬剤師は、何度も医薬品の卸業者と連絡をとりなおし、患者さんが本当に困っているのだということを訴えてくれた。それを受けて卸業者も、在庫確保に努力された。そうして何とか当面の分を確保できたのであった。もし私が薬剤師を叱りつけるだけであれば、そして薬剤師も卸業者に苦情をいうだけであれば、「そんなことを私に言われても仕方がない」と怒りがただ増幅していただけであろう。人が人に寄り添おうとする心が、わずかではあるが社会を動かしたといえる。ただし、医薬品をめぐる社会の構造的問題が解決したわけではない。

このことを通して、我われは社会的存在であるが故に、さまざまな社会的要因に個人の生活が制限されていることを知ると同時に、その状況を打開していくのは、人が人に寄り添おうとする心であることを知らされる。どうにもならないと思われる問題に、いかに向き合うのか。制限の中でいかに自由に生きるということが成り立つのか。それは仏教の課題でもある。その仏道の歩みが個人的なものに陥るという問題が、大乗仏教の課題となったということは、個人の生き方と社会の問題とは切り離すことができないし、切り離してはいけないということでもあろう。

[『崇信』二〇二二年四月号(第六一六号)「病と生きる(77)」に掲載]