一瞬の光

新しいカメラを買ったので、久しぶりに写真を撮りに出かけることにした。といっても遠くに旅行にはいけないので、近所を散歩しながらスナップを撮る。このところ休みの日もほとんど家に籠もっていたので、ちょうどいい運動にもなる。

写真は旅の思い出を残しておくものというぐらいに思っていったが、日常を撮ってみると面白い。こんなお店があったのか、こんなところに花が咲いている、こんなに鳥の鳴き声が聞こえていたのか、と何度も通っているはずのところで、見えなかったものや聞こえなかった音に初めて気がつく。

撮った写真を後から見ると、また面白い。写真は光の情報を記録するだけでなく、何気ない日常が輝きを取り戻す、一瞬の中に永遠を映し出すといったら大袈裟だろうか。そんな写真を撮れる腕はないが、そこにあるものに何も足していないのに、その風景がその瞬間に至り、そしてまた流れていく人の営みの歴史のようなものを感じる。

しかし何も足していないといっても、それは私が見た視点であり切り取ったものである。切り取ることで見えてくるものもあれば、逆にかえって見えなくなることもあるだろう。インドに行ったとき、子ども達が集まってきたのでシャッターを切った。後から見るとみな笑顔で幸せそうである。いい写真ですねとよく言われた。しかしそれだけでよいのか、とひっかかっていた。物乞いで集まってきた子ども達だからである。「笑顔」を切り取ったことで見えなくなることがあるのではないか。しかしまた、貧しいからといってその笑顔の全部が噓だというわけでもないだろう。喜びも悲しみもある。悲しくても笑うときもある。嬉しくても笑えないときもある。お金を得るために笑顔をつくるということもあり得る。いろいろな矛盾を抱えているのが人間なのだろう。

そうであるのに、よいところだけ見よう、見せようとするところに何か不健全さがあるように思う。ただ心ひかれて撮った写真は、よい写真かどうかはわからないが、それなりに腑に落ちるものがある。しかし、”よい写真”を撮ろうとした写真は、どこか鼻につく。

文章もそうかもしれない。病院のことを題材によい文章を書こう、などということほど現実に真摯に向き合う患者さんを蔑ろにすることはない。ただただ自分が受けとめたことを記そうとしてきたが、果たしてそうなっているか、問い質さなければならない。

私が切り取る日常にはどうしても恣意的なものが入る。もし釈尊が写真を撮ったなら、我われをどのように写し出すのだろうか。

[『崇信』二〇二二年三月号(第六一五号)」巻頭言]

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