縁起法の考察 二(1)

因縁法と縁生法

しからば、かかる十二縁起体系の本質的内容は如何なるものであり、また如何なる関係において存するであろうか。余はまず、「縁起」「縁生」の言葉に注意したく思う。縁起とは、仏陀によれば「此有故彼有、此無故彼無。此起故彼起、此滅故彼滅。」の理法である。即ち前者の「此有故彼有、此無故彼無」は存在関係における因由を示すものであり、後者の「此起故彼起、 此滅故彼滅」は生成関係における生縁を示すものであると思わるる。されば仏陀は十二縁起を説くや、「老死由生縁生有老死」(老死は生に由り、生に縁って老死有り)の関係を各支において求めている。かくて縁起とは明らかに縁生法に対する生成、もしくは存在の関係を示すものであり、縁生法とは随ってその縁起過程の内容を意味するものであろう。 即ち縁起とは「造作すること」であり、縁生法とは「造作せられたるもの」である。仏音の「達磨」の註訳における「因縁」とはまさしく前者であり、「物」もしくは「徳」、即ち存在及びその状態は、いうまでもなく縁生法に当るものである。されば『雑阿含経』の記者は明らかに因縁法と縁生法を区別して、

「云何為因縁法、謂此有故彼有。(中略)云何縁生法、(中略)謂縁無明有行、乃至、(中略)縁生故有老病死憂悲悩苦、此等諸法、法住、法空、法如、法爾、(中略)如是随順縁起、是名縁生法」
(云何が因縁法と為す。謂ゆる此れ有るが故に彼れ有り。(中略)云何が縁生法なる。(中略)謂ゆる縁無明に縁りて行有り、乃至、(中略)生に縁るが故に老病死、憂悲悩苦有りと。此等の諸法は、法住、法空、法如、法爾たり。(中略)是の如く随順縁起す。是を縁生法と名づく。)

『雑阿含経』(296)[T99.2.84b12] (296)如是我聞。一時佛住王舍城迦蘭陀竹園。爾時世尊。告諸比丘。「我今當説因縁
法及縁生法。云何爲因縁法。謂此有故彼有。謂縁無明行。縁行識。乃至如是如是純大
苦聚集。云何縁生法。謂無明行。若佛出世。若未出世。此法常住。法住法界。彼如來自所覺
知。成等正覺。爲人演説。開示顯發。謂縁無明有行。乃至縁生有老死。若佛出世。若未
出世。此法常住。法住法界。彼如來自覺知。 成等正覺。爲人演説。開示顯發。謂縁生故。有老病死憂悲惱苦。此等諸法。法住法空法如法爾。法不離如。法不異如。審諦眞實不顛倒。如是隨順縁起。是名縁生法。謂無明行識名色六入處觸受愛取有生老病死憂悲惱苦。是名縁生法。(後略)」
cf. SN 12. 20 Paccaya (paccayuppanna) suttaṃ, SN2 25.10-26.24

と説いた。 しかもこの関係は、やがて後期の学徒に注意された。世親はいう、

「諸支の因分を説きて縁起と名づく。此を縁として能く果を起こすに由るが故なり。諸支の果分を縁已生と説く。此れ皆縁に従りて生ずる所なるに由るが故なり」

『倶舎論』世間品[T1558.29.49c17-50a01] 如世尊告諸*苾芻言。吾當爲汝説縁起法縁已生法。此二何異。且本論文此二無別。以倶言攝一切法故。如何未來未已起法可同過現説縁已生。云何未來未已作法。得同過現説名有爲。由能作思力已造故。若爾無漏如何有爲。彼亦善思力已造故。若爾就得涅槃應然。理實應言依種類説。如未變壞亦得色名。由種類同所説無失。然今正釋契經意者。頌曰
此中意正説 因起果已生
論曰。諸支因分説名縁起由此爲縁能起果故。諸支果分説縁已生。由此皆從縁所生故。如是一切二義倶成。諸支皆有因果性故。

AKBh [Pr 136.2-10] uktaṃ bhagavatā “pratītyasamutpādaṃ vo bhikṣavo deśayiṣyāmi pratītyasamutpannāṃś ca dharmān”([SN12.20 Paccaya suttaṃ(PTS vol.2_25.10)]paṭiccasamuppādañca vo bhikkhave, desissāmi paṭiccasamuppanne ca dhamme.) iti. atha ka eṣāṃ viśeṣaḥ. śāstratas tāvan na kaścit. ubhayaṃ hi sarve saṃskṛtā dharmā iti. katham idānīm anutpannā evānāgatāḥ pratītyasamutpannā ity ucyante. kathaṃ tāvad akṛtā evānāgatāḥ saṃskṛtā ucyante. ābhisaṃskārikayā cetanayā cetitatvāt. anāsravāḥ katham. te ‘pi cetitāḥ kuśalayā cetanayā prāptiṃ prati. nirvāṇe ‘pi prasaṅgaḥ. tajjātīyatvāt tu tatraivātideśo yathā na ca tāvad rūpyate rūpaṃ cocyate tajjātīyatvād ity adoṣaḥ. sūtrābhiprāyas tv ayam ucyate.
    hetur atra samutpādaḥ samutpannaṃ phalaṃ matam. (28ab)
hetubhūtam aṅgaṃ pratītyasamutpādaḥ samutpadyate ‘smād iti kṛtvā. phalabhūtam aṅgaṃ pratītyasamutpannam. evaṃ sarvāṇy aṅgāny ubhayathā sidhyanti. hetuphalabhāvāt.

と。瑜伽の論家も、

「作者なく受者なく、(中略)因より生じ衆縁に託して転じ、本無にして而もあり、有り已りて散滅す、(中略)是の如き相を縁生法と名づく、 即ち因を縁起と名づけ果を縁生と名づく」

『瑜伽師地論』摂決択分中五識身相応地意地の六[T1579.30.611b15] (第1目 縁生の相を挙ぐ)
復次云何名縁生法。謂無主宰無有作者無有受者。無自作用不得自在。
(復た次に、云何んが縁生の法と名づくるや。謂はく主宰無く、作者あること無く、受者あること無く、自作用無く、自在を得ざるなり。)
(第2目 縁生の相を釈す)
從因而生託衆縁轉。本無而有有已散滅。唯法所顯唯法能潤。唯法所潤墮在相續。如是等相名縁生法。當知此中因名縁起果名縁生
因より生じ、衆縁に託して転じ、本無にして而もあり、有り已って散滅し、唯だ法の顕わす所に
して唯だ法能く潤し、唯だ法潤され、相続に堕在す、是の如き等の相を縁生の法と名づく。まさに知るべし、此の中、因を縁起と名づけ、果を縁生と名づくと。)

ViSg(チベット訳)[p86b2-86b7, d82b7-83a4] (第1目 縁生の相を挙ぐ)
དེ་ལ་རྟེན་ཅིང་འབྲེལ་པར་འབྱུང་བའི་ཆོས་རྣམས་ཞེས་བྱ་བ་ལ་གང་དག་བདག་པོ་མེད་པ་དང་། བྱེད་པ་པོ་མེད་པ་དང་། ཚོར་བ་པོ་མེད་པ་དང་། བདག་ཉིད་གཡོ་བ་།།མེད་པ་དང་། རང་དབང་མེད་པ་དང་།
(第2目 縁生の相を釈す)
རྒྱུས་བསྐྱེད་པ་དང་། རྐྱེན་ལ་རག་ལས་ཤིང་(1)འཇུག་པ་དང་། མ་བྱུང་བ་ལས་འབྱུང་བའི་ཆོས་ཅན་དང་། བྱུང་ནས་འཇིག་པའི་ཆོས་ཅན་དང་། ཆོས་ཙམ་གྱིས་(2)རབ་ཏུ་ཕྱེ་བ་དང་། ཆོས་རྣམས་ཁོ་ནས་མངོན་པར་བརླན་པ་དང་། ཆོས་རྣམས་ཁོ་ན་མངོན་པར་རླན་པར་བྱེད་པ་དང་། རྒྱུད་དུ་གཏོགས་པ་དང་། དེ་ལྟར་དེ་ལྟ་བུ་དང་མཐུན་པ་དེ་དག་ནི་རྟེན་ཅིང་འབྲེལ་པར་འབྱུང་བའི་ཆོས་རྣམས་ཀྱི་མཚན་ཉིད་ཡིན་པར་རིག་པར་བྱའོ། །དེ་ལ་རྒྱུ་གང་ཡིན་པ་དེ་ལ་ནི་རྟེན་ཅིང་འབྲེལ་བར་འབྱུང་བ་ཞེས་བྱའོ། །འབྲས་བུ་གང་ཡིན་པ་དེ་ལ་ནི་རྟེན་ཅིང་འབྲེལ་པར་བྱུང་(3)བ་ཞེས་བྱ་བར་བལྟ་བར་བྱའོ། །
(1) d. add འབྲལ་བར་ (2)d. ཞག་(3) d. འབྱུང་

と。

因縁生の内容は五蘊である

しからば、この生成の関係に随順せる内容は如何なるものであろうか。けだしこれ五蘊と称せらるる所のものであろう。何となれば因縁生の法は、それが因縁生たる限り有為法である。しかも有為法は、五蘊以外に求めらるべきであらぬが故である。

「色等の五法は具さに有為を摂す。 衆縁の聚集して共に作す所なるが故に」

『倶舎論』界品[T1558.29.2a6] 前説除道餘有爲法。是名有漏。何謂有爲。頌曰
又諸有爲法 謂色等五蘊
亦世路言依 有離有事等
論曰。色等五蘊謂初色蘊乃至識蘊。如是五法具攝有爲。衆縁聚集共所作故。無有少法一縁所生。是彼類故。未來無妨。如乳如薪。
AKBh[Pr 4.20-5.1] yat tūktaṃ “saṃskṛtā mārgavarjitāḥ. sāsravā” iti, katame te saṃskṛtāḥ.
te punaḥ saṃskṛtā dharmā rūpādiskandhapañcakam. (7ab)
rūpaskandho vedanāskandhaḥ saṃjñāskandhaḥ saṃskāraskandho vijñānaskandhaś cety ete saṃskṛtā dharmāḥ. sametya saṃbhūya pratyayaiḥ kṛtā iti saṃskṛtāḥ. na hy ekapratyayajanitaṃ kiṃcid astīti. tajjātīyatvād anāgateṣv avirodho, dugdhendhanavat(1) /

と世親もいった。五蘊とは心理的自我の意識過程であると思わるる。すでに五蘊が縁起生成過程の内容たる限り、しかく解せらるるは当然であり、もちろんあまりに分類的なるの弊はあるが、それが前後必然の関係を有するものなることを、世親は彼の『倶舎論』において説明している。即ちそれは、自我の構成的要素として存するのでなくて、精神過程の必然的関係において存する。したがって当然、五蘊の第一位たる色蘊をもって物質的要素となすことは妥当であらぬ。自我の意識過程としての色法は、精神生活の原始的素材たる感覚的意識事実として意味を有するものであらねばならぬ。

「所謂色とは、寒は亦た是れ色であり、熱も亦是れ色であり、飢も亦是れ色であり、渇も亦是れ色」(増一阿含経』)

『増一阿含経』聴法品第三十六[T0125_.02.0707b13] 彼云何名爲色。所謂色者。寒亦是色。熱亦是色。飢亦是色。渇亦是色。

であると経典は説く。 またこの意味において、

「内地、堅鞭所摂、有執受性、形段受用。外地、堅鞭所摂、外執受性、形段受用、依止受用、破壊受用。乃至外風、依止受用、変壊受用。」

『顕揚聖教論』摂事品第一[T1602.31.0483a29-c09] 色者有十五種。謂地水火風眼耳鼻舌身色聲香味觸一分及法處所攝色。有二種。一内二外。謂各別身内眼等五根及彼居處之所依止。堅鞕所攝有執受性。復有増上積集。所謂髮毛爪齒塵垢皮肉筋骨脈等諸不淨物。是内地體形段。受用爲業。謂各別身外色等五境之所依止。堅鞕所攝非執受性。復有増上積集。所謂礫石丘山樹林甎等。水等災起彼尋壞滅。是外地體形段。受用爲業。依持受用爲業。破壞受用爲業。對治資養爲業。
水亦二種。一内二外。内謂各別身内眼等五根及彼居處之所依止。濕潤所攝有執受性。復有増上積集。所謂洟涙涎汗膏髓痰等諸不淨物。是内水體。潤澤聚集受用爲業。外謂各別身外色等五境之所依止。濕潤所攝非執受性。復有増上積集。所謂泉源溪沼巨壑洪流等。火等災起彼尋消竭。是外水體。依持受用爲業。變壞受用爲業。對治資養爲業。
火亦二種。一内二外。内謂各別身内眼等五根。及彼居處之所依止。煖熱所攝有執受性。復有増上積集。所謂能令有情遍温増熱。又能消化凡所飮噉。諸如是等是内火體。成熟和合受用爲業。外謂各別身外色等五境之所依止。煖熱所攝非執受性。復有増上積集。所謂炎燎村城蔓3延洲渚。乃至空逈。無依故滅。或鑚木撃石種種求火。此火生已不久灰燼。是外火體。變壞受用爲業。對治資養爲業。
風亦二種。一内二外。内謂各別身内眼等五根及彼居處之所依止。輕動所攝有執受性。復有増上積集。所謂上下横行入出氣息。諸如是等是内風體。發動作事受用爲業。外謂各別身外色等五境之所依止。輕動所攝非執受性。復有増上積集所謂摧破山崖偃伏林木等。彼既散壞。無依故靜。若求風者動衣搖扇。其不動搖無縁故息。諸如是等是外風體。依持受用爲業變壞受用爲業。對治資養爲業。

という瑜伽論家の能造色の説明は、注意に価するものと思う。五蘊とは、所詮この感覚心象を素材として、乃至識蘊を「四蘊の所依止なる我の自体事」とする心理的自我の一系統にして、それが自我の意識活動の全内容たるものである。

かくして自我の意識生活は、この五蘊過程を出るものであらぬ。即ち了別作用が認めて対境となすところのものも、自我の心的過程における心的所産としての形像に他ならぬ。いわゆる世間と称せらるるものも、この心的過程の複雑なる内容であろう。少なくとも仏陀の宗教における世界概念は、自然科学的のそれにあらずして、畢竟かかる内容を有する「自我の世界」に他ならぬものにして、常に「五蘊世間」と称せらるる。

縁起形式には生成関係(五蘊)と存在関係(根境識)がある

仏教教学において、思惟の対象となる存在は一般に「十八界」とさるるが、それが五蘊の要素の認識的分類であることは、『倶舎論』が、

「此中に説く所の五蘊を十二処十八界と為す」

『倶舎論』界品[T1558.29.0004a25] 如是此中所説五蘊。即十二處并十八界。
AKBh[Pr11.14-15] evam atra pañca skandhā dvādaśāyatanāni aṣṭādaśa dhātavo nirddiṣṭā bhavanti.

ところの分類形式によりても知り得らるるのである。かくて吾等の思惟生活は、その素材を意識経験の心的事実以外に求め得られざるものであるが、それがそれ以上さかのぼる思惟の独断を許さざるゆえんは、五蘊の心理的過程を認識関係において考察することによりて明らかとなる。しかしてそれは、まさしく仏教教学における 「根」「境」「識」の定立である。存在一般である「一切」は、それを生成過程として求むれば五蘊であるが、同時的存在関係、即ち認識形式によれば根境識の関係となることは明らかである。縁起内容としての法が、かかる二つの関係によりて考察さるることは、いうまでもなく吾等が先に注意せし縁起形式に、存在関係と生成関係の存するによるものであるに違いない。即ち生成的縁起関係の内容となるものは五蘊の意識過程であるが、存在的縁起関係としては五蘊の意識事実は根境識の認識関係の上に成立するもの、即ち認識対象として限定されたものなるを考えうるであろう。前者関係の考察に依りて「一切は五蘊」であったが、後者関係において、

「眼と色、 耳と声、 鼻と香、 舌と味、 身と触、意と法、これを一切という」(『雑部尼柯耶』)

の判断が成立する。あるいは前者関係によりて 「一切は心によりて作らる」の生成的唯心的世界観は成立するであらう。即ち『法句経』は、

「諸法は心に導かれ心に作らる」

『法句経』dhamma-pada[PTS 1] manopubbaṅgamā dhammā, manoseṭṭhā manomayā.
manasā ce paduṭṭhena bhāsati vā karoti vā,
tato naṃ dukkham anveti, cakkaṃ va vahato padaṃ.(1)
諸法は心に導かれ、心を主とし、心から成るものである。
もし汚れた心で話したり行ったりするならば、
苦しみはその人につき従う。車輪が運ぶもの(牛)の足跡につき従うように。

といひ、 また[Ya1]

「世間は心に導かれ心に悩まされ心の支配に生く」(『増一尼柯耶』)

と『増一尼柯耶』も説く。 また後者関係によりて

「一切は識によりて立つ」(『諸経要集』)

の認識論的唯心的世界観は成立するであろう。即ちまた、

「識亡ぶ時、 地水火風、 乃至名色残りなく亡ぶべし」(『長部尼柯耶』)

と『長部尼柯耶』は説く。