受念寺に併設する老人ホーム「受念館」は軽費老人ホームという形態で、もともと生活が自立している人の施設であった。しかし現在、介護が必要な人が増え、いわゆる認知症という診断がついている方も少なくない。施設内では、一見意味もなく歩き回っていると思われる方もおられ、それを見ると、一般的には「徘徊」と捉えられることも多いだろう。しかし「徘徊」とは「目的なく歩き回る」ということである。散歩で歩いていても、便秘を解消しようとして歩いていても、あるいは何か大事な用事のために出かけようとしていても、それを見た人がその目的を知らなければ、「徘徊」という言葉で表されてしまう。ひとたび「徘徊」と言ってしまえば、その目的を知ろうとしなくなるのである。
先日、施設の入居者の方がお浄土に還られた。本堂ではお通夜の準備が進められていた。そのとき、いつもよく「徘徊」されている方が、本堂のある一階まで降りてこられていたという。もしこのとき対応した職員が、(忙しいときにまた徘徊して、迷惑だなあ)とか(お通夜はまだなのに・・・ちゃんと教えないと)などと思っていたらどうだろう。単に認知症の症状を呈した困った入居者として、部屋に連れ戻されただけで終わっていたかもしれない。しかし、実際に対応した職員は違っていた。この方の心をくみ取ったその職員は、寄り添って本堂に行き、そこで一緒に手を合わせた。そして、その方から出てきた言葉、それは「南無阿弥陀仏」だったという。お念仏の心をしっかりといただいておられたのだった。あとからそのことを聞いて、大きく心を揺さぶられたと同時に、身が縮む思いがした。お念仏の声を閉ざしてしまっていたかもしれない、と。
以前にも紹介した、母の介護に長年たずさわられた、児童文学作家の藤川幸之助さんは、ある講演でこのようなことをおっしゃった。やめさせよう、やめさせようとしている人は、決して相手の声を聞かない、と。母の介護の中で自分がしてきた態度であったという。相手は間違ったことをしている、正しい道に導かなければならない、そう思っているとき、自分は相手より上に立ち、見下し、自分の主張ばかりし、相手の声を聞かず、相手を敬う心を忘れている。そういう態度で人と人とがよい関係を築けるはずがない。屈服させるか関係を切り捨てるか、どちらかしかなくなる。
京都の相応学舎の台所に掛かっているのれん暖簾を思い出した。そこにはこう書かれている。「他をとが咎めんとするの心を咎めよ」(「有限無限録」清沢満之)この言葉はこのように続く。「自らの多過多失あることを知れば、他を咎むるの資格なかるべし。(中略)もしあるいは他の過失の如き、我決してこれに陥ることなしとせば、まず天の我に幸するの深きを感謝せよ。他の天賦の薄きを憐念せよ。決して他を咎むるの暇なかるべし。」
「他を咎むるの暇なかるべし」他を咎むるより先にしなければならないことがある。変わらなければならないのはまず自分の方なのではないか。
[『崇信』二〇一七年四月号(第五五六号)「病と生きる(20)」に掲載]
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