問いとしてのいのち、歩み出すいのち

その日、眼がぐっと見開いた。以前お手紙を書いたALSの患者さんのことである(二〇二一年十一月号、病と生きる(72)扉の向こうへの手紙)。全身の筋肉が動かない閉じ込め状態となっているが、進行しても眼を動かす筋肉の働きは残る可能性がある。診察のとき、私の指を見てくださいと声をかけてきた。しかしこれまでは虚ろな眼でほとんど反応がなかった。それは機能として働かないのか、どうせ動かしたところで何の意味もないとあきらめた眼なのかはわからなかった。しかしその日は、目の前のものを見ようと、眼瞼がしっかりと動いたのであった。

そこで、「今から質問をするので、答えが『はい』なら眼を見開いて、『いいえ』ならそのままにしてください」と説明し、名前や生年月日について、正しいものと間違っているものとをおりまぜて尋ねた。答えがぴったり合っていれば意思疎通ができる、と淡い期待を抱いたが、その日はうまくいかなかった。

 質問に答えることはできなかったが、見ようという意思を表されたということはいえるだろう。それはただ生命現象ということではなく、そこに「生きること」をあきらめない姿があるというのは言い過ぎだろうか。私はそう受けとめるのだが、それは安易に美化しているだけではないかという意見もあるだろう。

 確かに、眼を動かしたということだけをもって、それが生きる意思の表れだと言えるのかという疑問は、私自身が実際に出会った出来事からも突きつけられる。それは同じく全身が動かなくなったALSの患者さんのことであった。眼の動きだけが残存していて、パソコンで文字を入力することができた。その眼で時間をかけてディスプレイに打ち込まれた文字が、「死にたい」という四文字であった。このことが今も頭を離れず、仏法を確かめるときいつもここにかえらなければならないと思っている。

 その「死にたい」をどうしたら「生きたい」にできるのか、そのことをずっと考えていた。そして原因は何かと考える。身体が動かないからではないかと身体的問題と考えたり、病によってうつになっているのだと心理的問題と考えたりする。しかしV・E・フランクルはこのようにいう。

なにに現実が還元されるかに応じておもに三つのニヒリズムの変種が区別できる。つまり生理学的現実に還元されると、生理学主義といった形のニヒリズムが現れ、心的現実に還元されると、心理学主義の仮装のもとに、また社会学的現実に還元されると、社会学主義の仮装のもとに立ち現れる。いずれにしてもどの場合にも現実は(中略)、単なる結果・所産に縮小してしまう。しかし、単なる結果が認められるところでは志向性を認めることができず、志向性の認められないところでは意味を認めることができない。存在はその意味を奪われる。(『苦悩の存在論』八〜九頁)

「単なる結果・所産に縮小してしまう」つまり「死にたい」という声を、単なる心理的反応として生じた「うつ状態」という結果だとしか見ない。繰り返される一現象にすぎないことになる。それでは「志向性を認めることができず」つまり、苦悩に対して何らかを意思することが認められない、私が病気を抱えてどう生きるか、困難にどう応えるか、という問いに向き合えないということである。そういう課題を、「生命は生きている、しかし『いのち』が生きられない」と「いのち」という表現で表されてきたのではないか。

それをフランクルは「志向性」、瑜伽行派では「阿頼耶識」、近代教学以降は「本能」「いのち」などという表現で課題としてきたのではないか。鳥は鳥として、魚は魚として、人間は人間として「いのち」を全うしようと生きる。しかしどう生きることが人間として「いのち」を全うすることなのか、という問いが人間には起こってくるのである。「いのち」とわざわざひらがなで表現するのは、そのような問いを「○○的問題」と還元することなく向き合うという課題を担っているからだといえる。昨今「いのち」という表現を見直そうとする論説をときどき目にするが、この問いとしての「いのち」という、言葉が担う課題を見ずに、表現に対する嫌悪感から始めるようなものには疑問を抱く。

眼を動かしたということは、直接的に「生きたい」という意思の表れだとはいえないかもしれない。「死にたい」かもしれない。しかしたとえそうであったとしても、その言葉には、文字通り死を望む声の奥底に、どう生きることが人間としていのちを生きることなのかわからない、という切実な問いと、わからないからいのちを生きられないという苦悩が潜んでいる。すべてが無意味だとあきらめていないから苦悩がある。人間が人間でありたいと求める心が、何らかの意思を表出せしめるのである。その意思に存在の意味を認める眼を示すのが仏教ではないだろうか。その意思の上に、「生死」という迷いとしての「いのち」もあれば、「願生」という「いのち」の意味の転換もまた成り立つ。だから、眼の動き一つにも、「いのちみな生きらるべし」という希望があると受けとめるのである。

[『崇信』二〇二二年三月号(第六一五号)「病と生きる(76)」に掲載]

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