[この記事は『崇信』二〇二三年四月号(第六二八号)「病と生きる(89)」に掲載されたものです]
病院に併設する介護施設から相談があった。“不穏”で困っているという。看護記録を見ると、「昼食後『誰が送ってくれるの!?』『私はどこにいたらいい?!ここに居てもいいの?!』と不穏になられる」「『下におろして、○○(息子さんの名前)おるから。1階におろして、帰らなあかん』とずーっと繰り返す」などと記されている。自分の家に帰りたいというのは、ある意味当然のことだろう。「家」といってもそれは「自分が確かに自分で居られる場所」ということの象徴ともいえる。そういう意味では、誰もが帰るべき場所を求めているのではないだろうか。だから自宅に居ても「帰りたい」といって帰ろうとされる場合もある。施設にいるならなおさらである。帰りたいのに帰れないもどかしさや苛立ち、ただここに居るということに安らぐことができない苦悩、そしてそれを受けとめきれず「不穏」と表すしかない介護現場。しかし現場の苦悩を知らずに、簡単に批判はできない。
その患者さんが診察室に来られた。認知症の検査をするべきかもしれないが、いま「今日の日付は?」「年齢は?」などと尋ねることに空しさを感じ、検査はやめた。自然と音楽の話になった。ジャズの歌手だったらしい。テレビにも出たことがあるといい、本格的に活動されていたようである。歌ってもらえませんかとお願いしたが、「もう声がしわがれてダメです」といって歌われなかった。全然歌ってくれないと看護師さんも言う。しかし不思議なことに、「ついこの間もテレビに出まして」という話もされるのである。医学的には「逆行性健忘」という記憶障害の一種で、充実していた頃の記憶に戻ると言ったりする。しかし私は「戻る」のではないと思う。「施設に入居している自分」も「歌手の自分」もともにここにあるのではないか。だから歌えなくなったことが悲しいし、ここに居てもいいの?と居場所を失って戸惑うのではないか。
歌手であるということが失われ悲しむとき、それは本当の自己なのか、歌手でなくなったら自己が失われるのか、という問いは大事な意味を持つだろう。無我の教説(『パーリ律 大品』など)において、五蘊(色・受・想・行・識)のそれぞれが自己ではないと確かめていくが、その背景にある課題は、五蘊を自己とする喜びが崩れ、自己を見失うという苦悩と、それを乗り越え自己を取り戻すことであろう。
ところが、無我の教説に似て非なる言説として、”本当の自分などない”などというのを目にすることがある。本当の自分を求めるのは間違っているといい、いろいろな自分があるので、あらゆる自分を同時に発揮したり、複数の自分を切り替えたりすることが大事だ、などという。
しかしまず、本当の自分が崩れ居場所を失った者に、本当の自分などないという言葉が力になるだろうか。本当の自分はすでに崩れているのであり、その崩れたところから、それでも何者かでありたいと願い、苦悩するのだから。本当の自分などないと言いながら、切り替えるのが大事だというのも矛盾だろう。切り替えているのは誰か。自分とは、自分の意思で思い通りに切り替えられるようなものか。そんな意思を想定しているなら、それこそ「本当の自分」に囚われていることになるだろう。
自己について考えるとき、単に「本当の自分などない」というだけの受けとめは危うさがあると思う。「そこに自己は無い」ということは、「無いものを有ると見る」「私でないものを私と見る」という問題を乗り越えるという点で大事な意味があるが、注意しなければ「有るものを無いと見る」「私であるものを私と見ない」という誤謬に陥るからである。「歌手であること」を自己とするが故に苦悩するが、しかし「歌手であること」を失って苦しむ自己を離れて自己はないのではないだろうか。
瑜伽行派の論書である『瑜伽師地論』の『菩薩地』「真実義品」にはこのように述べられる。
色などの諸法についての「単なる事態」を損減しているものにとっては、真実も仮説もなく、その両方も妥当ではない。(中略) 彼らにとって仮説の依り所である「単なる事態」が存在しないから、まさにその仮説が決して存在しない。(中略)このようにその非存在論者は、賢明な仲間にとって語られるべきでない者となり、ともに過ごすべきではない者となる。彼は自己さえも滅ぼす。彼の見方に従う世間の人々を混乱に陥れる。これを意図して、世尊は「ここで、ある人の人見は、ある人の誤って捉えた空よりましである」と説かれた。それはなぜか。人見論者は、知られるものについて誤解しているだけで、すべての知られるものを損減しないだろう。
自己でないものを自己と掴む「人見(玄奘訳では「我見」)論者」は、どこにも自己はないとする「非存在論者」よりましだという。「非存在論者」は自己さえも滅ぼすという厳しい指摘がある。
私たちは、本当の私だと信じてきたものが崩れたとき、なぜ苦悩するのか。本当の自分などどこにも無いと決定しているなら、信じられる確かな自分が無いと苦悩することもない。しかし現に苦悩しているのは、真に私でありたい、真に人間でありたいと願うからであろう。その心は人間の根本ではないか。何も信じられない中で、確かにあるものは本当の自分を求める心ではないか。その心を抜きに人間を語れば、豊かないとなみはたちまち枯れる。本当の自分を求め苦悩する心を無意味なものと決定してしまうことがまさに、人間を生きられなくするのではないか。人間は、何者かに成ることなく生きられない。だから「仏に成る」ということが、真に満足なる人生を全うした人物像として語られるのではないか。
宮下晴輝先生が『シリーズ仏教のことば(17)無我』で指摘されているように、釈尊は無我を説くだけでなく、そのあとに自己を探し求めることが大事であることを語っている。安田理深先生は「縁起法の考察」(『安田理深選集第一巻』)で、「かくして自我の意識生活は、この五蘊過程を出るものであらぬ」「五蘊は純粋なる自我の精神過程であるが、五蘊が五蘊自体の本質に無自覚であるとき、それは五取蘊の異熟現象となる」と述べられている。本当の自分などないと言ってみても、自我に無自覚であれば結局自我に縛られる。我執を否定しようとして、誤って我執の所依を否定してしまっては歩むべき大地も残らない。問題は「どこに立つかを顕かにする」ということであり、「どこにも立たない」ことではないだろう。
患者さんのことに話を戻そう。介護施設でMMSEという認知機能検査を実施していた。その検査項目に自由に文章を書いてもらうところがある。そこにはこう書かれていた。「私は人を信じたい」「私は常に人に愛されたい そして人を助ける」と。ここに真に私でありたい、真に人間でありたいという願いが表れているのではないか。歌手である自分が崩れてもなお、人間として願うことがある。本当の自分を求めることが間違いだといえば、その願いも否定するおそれがあると思う。本当の自分に「囚われる」という閉ざされた方向性を否定するのであって、「求める」という開かれた方向性を否定してはならないと思う。問題は「どこに向かって開かれているか」であり、「どこにも向かわないこと」ではないだろう。
次の週私は、ジャズの勉強をしてきましたといって、外来で一緒に聞いてもらった。しかしにわか仕込みではだめである。年代が合わなかったのか、ご存じの曲がなかった。そのとき付き添いの看護師さんが「『テネシーワルツ』好きですよね」と教えてくれたので、すぐスマートフォンで調べて曲をかけた。するとなんと曲に合わせて歌ってくださったのだった。声はかすれていたが、音程はぴたりと合い、美しく味わい深い歌声であった。その歌声とともに生きてこられた人生の喜びや悲しみと、いま躍動する心にしっかりと触れることから始めたいと思った。
コメントを残す