一度きりの出来事

[この記事は『崇信』二〇二三年十月号(第六三四号)「病と生きる(94)」に掲載されたものです]

例えば認知症と診断されている人が、「夜中に何度も電話をかけてくる」という出来事があったとする。実際ご家族からしばしば相談されることである。家族は困るからやめさせてほしいと思うだろう。つまりこの出来事は、認知症による「わるい状態」であり、それがない「よい状態」にしてほしいと思う。

医者も同様に考え、対処法を探す。どう探すかと言えば、医学的にエビデンス(証拠)がある方法から探すのである。つまり、こういう場合はこの薬を使えば何人中何人が改善した、その確率が高い薬を選ぶ。たまたま効いたのでは困るのであり、何度やっても誰がやっても同じ結果が得られるようなものを選ぶ。そういうことを「再現性がある」といい、それが医学的に妥当であると考える。

 しかし、ある方のご家族は、困るからやめさせてほしいというのではなく、よくお話を聞かれた。それは二〇二〇年七月の出来事である。そのころ熊本県を中心とした豪雨被害(令和二年七月豪雨)があり、テレビでは頻繁にそのニュースが流れていた。そういう自然災害のたびに、この方が義捐金を送っていたことをご家族は思い出した。しかし認知症で今までやってきた手順でうまくできず、どうしていいかわからず電話をかけてきた、ということではないか。そう考えたご家族は、今度一緒に手続きをしましょうと言ったら、電話はかかってこなくなったのである。

 このエピソードから、二つのことに気づかされた。一つは、原因を認知症と見たとき、同じ人間としての心が見えないということである。認知症が原因とすれば、「夜中に電話をかけてくる」というのは「わるい状態」であり、それを「よい状態」に変えなければならないということになる。やめさせようやめさせようとしているとき、相手の話を聞かないのである。認知症をいくら学んでも、相手を蔑むために学んだ知識を使うようなものである。しかし豪雨の被害に心を痛めるということに「よい」も「わるい」もない。ご家族は、「よい」か「わるい」かではなく、自分と同じように世の中の出来事に心動かされる一人の人間であるというところに立ち、自分も豪雨被害に心を痛めていたからこそ、一見不可解な行動の意味に気づけたのである。

もう一つは、この出来事が一度きりだということである。このご家族の対応で「夜中に電話をかけてくる」ということがなくなった。しかしだからといってこの方法がまたどこかで通用するというわけではない。この時、この人にしか当てはまらない、たった一度きりの出来事である。だから医学的にはエビデンスはなく、再現性はない。しかしそれが、人間が生きるということではないか。日々起こることは同じような出来事でも二度と同じことはない。一度きりの時間を日々過ごし、一度きりの人生を送る。その一度きりの出来事をこのご家族は見逃すことなく見届けたのである。逆に言えば医学的な見方だけでは一度きりの出来事を見逃すということを教えられた。確かに薬を使わなければどうにもならないこともある。本人が自己を見失うほどに興奮していることもあるし、家族が疲労困憊して共倒れになるおそれもあるから、薬も使う。ただ、その時その人だけの一度きりの出来事を抑えてしまうかもしれないと思いながら使うことにしている。

 同じ人間としての心を見るということと、一度きりの出来事を見るということ。前者はみな同じ人間ということであり、後者は一人も同じ人間はいないということである。相反するようであるが、これらが同じ時、同じ人間の上に気づかれた。これはどういうことだろうか。

まず「同じ人間としての心」とは「問い」ではないだろうか。問いに応えてどう行動するかは個人によって異なるが、世間の出来事に悲しみ、それにどう応答すればよいのかという「問い」は、同じ人間として共有することができるのではないか。この方であれば、自然災害で人が亡くなっていくことを悲しみ、それに応えてどう行動するか問うた。同じ人間として悲しみ、問うことがあるはずである。ご家族はその問いを共有したから、「夜中に電話をかける」ということを、「一度きり」のかけがえのない出来事として気づくことができたのではないか。

それは同じ人間としての「問い」を見る普遍的な智慧が、個性の輝きに気づかせたといえないだろうか。医学のいう再現性が普遍的だといわれることがあるが、それとは全く異質のものだろう。医学のいう再現性は、目の前の出来事の意味を喪失する。つまり「夜中に電話をかける」という出来事は、単に脳機能が低下した結果引き起こされた異常行動であり、同じ現象は繰り返し起こりうることである。しかし、普遍的な智慧は、目の前の出来事の意味を回復する。つまり「夜中に電話をかける」という出来事を「問い」に対する「応答」とみる。この方であれば、災害の悲しみに応えて、何かを願い行動した。この時この人が何かを願い行動したということは、かつて誰も為していない、ただ一度きりの創造的な出来事である。「夜中に電話をかける」という出来事が、「一度きり」の出来事として輝きをもって浮かび上がる。

先のエピソードは、災害の悲しみということであったが、広く老病死ということであれば、人間には、老病死を悲しみ、それに応えてどう生きるかと問わざるをえないということが起こる。その普遍的な「問い」を引き受け、それに「応答」した人が「仏陀」であろう。老病死の悲しみを前にしても人生の意味を失うことなく、ただ一度きりの時と人生を創造していく道を歩んだ人が仏陀であると、私は受けとめている。そうであれば、その人物像は老病死を前にして不安を懐く我々の希望である。しかし最初の普遍的な「問い」を引き受けたということがわからなければ、その「応答」は輝きをもって見られないのではないか。

 「同じ人間」ということを強調すると、人間という一般性に埋没するようにも思える。抽象的であれば力にならない。逆に「一度きり」を強調すると「個」が自我という狭いところでしか見られないようにも思う。個を尊重するといっても自我の関心を満たすということであれば他者とはわかり合えず孤独でもある。しかし、普遍的な問いとは、老病死の悲しみに応えて生きた具体的な一人一人の人生の問いであり、諸仏の歴史の根源にあるものだろう。だから普遍的な問いを引き受けて応答した人と、ほんとうの意味で出会ったなら、そこに個性が人間として輝いていることと、それを支える人間の歴史を見るのではないか。

それは同時に、自らの奥底にある問いに気づいていくことでもある。その問いに気づくごとに、自分が個性だと思っている殻ではなく、人間としての問いに応答することが、一度きりのかけがえのない個性として浮かび上がる。個が個として輝きつつ人間同士が響き合うとはそういうことではないだろうか。しかしなかなかその問いに立てないから、個を尊重するといっても、個は自我の関心でしか見られず人間同士が孤立するのではないか。