[この記事は『崇信』二〇二三年十二月号(第六三六号)「病と生きる(96)」に掲載されたものです]
前回から、「立ち直りの物語」を批判する頭木弘樹氏の言説を確かめている。「「病気のおかげで」は本当?「立ち直りの物語」を求める心理の正体」(朝日新聞デジタル)では、病気のおかげで大事なことに気づいた、という語りは、病の苦悩の中では立ち直りを押しつけられる圧力に感じたと言う。「悲惨だったけど、立ち直った」パターンは、感動を呼びやすいが、その感動は偽物だと氏は言い、倒れたままでいいというメッセージが救いになったと言う。それに対して二つの疑問を挙げた。一つは、一人の人間が立ち直った事実や、苦悩から見えることまで批判する必要があるのか、ということ。二つ目は、倒れたままでいい、ということも圧力になりうるのではないか、ということである。
前者については、「立ち直った」ということの意味をはっきりさせないといけないだろう。「何から」立ち直るのかという「問題」を確かめないといけない。氏は「気を強く持たないと」「性格を直さないと」と一日何度も迫られることがつらかったという。つまり心の強さや性格が「問題」だと見られ、そこから立ち直ることが迫られたということだろう。その頭木氏の批判はもっともであり頷くところである。
ここで何がすれ違いを生んでいるのかと言えば、「問題」がずれていることだろう。病によって生きていけないという問題を、心の強さや性格という個人の問題にしてしまっていることである。みな病を前にして立ち尽くす一人の人間だというところに立っていない。人間には、生きる喜びを見失い、生きる意味がわからなくなったとき、自己はここに生きているのに、自己が自己として生きられなくなるということがある。そういう問題にどう応えるかということこそ、本当に問題にすべきことであろう。
確かに「立ち直った」ということは、苦悩がなくなり晴れやかな人生が始まったように語られる。しかし実際は日々の苦悩に応えていかなければならないし、その苦悩に自己を見失い、生きていけなくなることもあるだろう。しかしその日々の苦悩に戸惑い右往左往しながらも、苦悩に応えて生きる姿に出会ったなら、それは自己を生きようとする尊い姿であり、それを支える“はたらき”は何なのか、と私は問いたいと思う。その人を「立ち直った人(立ち直ろうとする人)」と表現するならば、私にとってそういう人との出会いは、圧力ではなく、生きる力になる。頭木氏自身も、立ち直りの物語を批判する一方で、『病と障害と、傍らにあった本』の中では、病気をしたからこそ本との出会いがあり、それによって救われたとも語られている。苦悩の心が出会うことがあるということは、「病気のおかげで」という安易な語りだといって一括りで批判すべきことではないだろう。
何を否定し何を肯定したらよいのか混乱しがちな問題だが、このことは、児玉曉洋先生が明確にされていると思う。
「我が国に生まれんと欲え」という如来の喚び声と、その喚び声に応えて「如来の本願を我がいのちとして生きる」、そこに「願生」という新しい「いのち」が誕生する。(中略) ところが、そのときに、「欲生我国」という如来の喚び声そのものと、その喚び声に応答する私たちの姿との秩序の混乱が起こるのです。たすける本願のはたらきが、たすかった自分の心の中にいわば再び閉じ込められてしまい、いのちの真実そのものがまた私有化される。(中略)そしてたすけるはたらきそのものを忘れてしまって、たすかった自分を主張するという誤りが起こる。たすけるはたらきを讃嘆するのではなく、たすけられた自分を主張するという、こういう顚倒が起こるのですね。(『児玉曉洋選集第九巻』四五七頁)
「たすけられた自分を主張する」という自分の「思い」に立つことが、「たすかった立場に立つ」「いのちの真実そのものがまた私有化される」ということであり、頭木氏が「立ち直りの物語」を、立ち直りを迫るような圧力として批判している点でないだろうか。「たすかった」ということを私有化したとき、かえって苦悩の事実を見えなくし、苦悩の意味を閉ざす。
しかし一方で、「たすけるはたらきを讃嘆する」ということは、自己を見失った私が、自己に帰って生きるということを支える”はたらき”の中に生きるということである。それが「願生」という新しい「いのち」を生きるということだろう。「たすけられた自分を主張する」という「思い」を否定しようとして、「たすけるはたらきを讃嘆する」という「智慧」のはたらきまで否定しては、結局「たすからない自分」の「思い」に閉じこもるしかないのではないか。「たすけるはたらき」である「智慧」との出会いによって、その「思い」に閉じこもる自分が知らされたとき、「存在」の事実があきらかになり、事実を生きることができると仏教は言うのではないだろうか。
だからこのことは、もう一つの「倒れたままでいい」の問題にも通じるように思う。「倒れたままでいい」も「思い」であれば、「存在」の肯定にならないのではないか(つづく)。
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