空のベッドの前で

[この記事は『崇信』二〇二四年三月号(第六三九号)「病と生きる(99)」に掲載されたものです]

入院したときから寝たきりの患者さんがおられる。確定診断はついていないが、おそらくパーキンソン病の進行期である。呼びかけてもほとんど反応がない。少しでも反応がよくなるようにと、パーキンソン病の薬を調整するが、なかなか効果がない。

最近ご家族が面会された。しばらく新型コロナもあり、病院での面会が制限されていたが、このところ徐々に再開している。そうして久しぶりにご家族に会ったとき、これまで動かなかった手が家族の方に伸びたのだという。それを見て皆感動し、ご家族も喜んでいたと看護師から聞いた。

それを聞いて最初私も素直に喜んだのだが、よくよく考えたとき、果たしてそれでよいのだろうかという疑念が頭をもたげた。家族と過ごしそれにちゃんと反応がある、会話が交わせればなおよい、そしてそういうことを喜ぶ。それを喜ぶということは、それが“人間らしい”ことだと思っているからではないのか。普段素朴に、”こういうことが人間らしい生活だ”と思うものを持っているから、それが失われて悲しみ、それが回復したと喜ぶ。だから、逆に言えば、それまでの、呼びかけても反応がなかったこの方を、私はどう見ていたのか、ということが問われる。呼びかけても反応がなかったら人間らしくないのか、と。人間らしさというのはそういうことで決まるのか。それは命に優劣をつけていることにならないか。寝たきりになって反応がないということを見て、人間らしさを失い尊厳が失われていると言う人がいるが、そう決めてしまう見方がまさに、命の尊厳を損ねているのではないか。命の意味を閉ざしていくことがまさに尊厳を無くすことであり、命の意味が無限に開かれていることこそ尊厳があるというのではないのか。だから、人間らしさというのは、人間が意識するようなことの、もっと奥底にあるのではないか。

しかし一方で、身近な人が重病で意識がなくなったとして、意識が回復すればうれしいのは当然でもあろう。そのことのみをもって、意識がない状態を低く見ているから、命に優劣をつけている、というのも短絡的かもしれない。意識がなくてもただそこに存在しているだけでいい、しかし同時に、できれば意識を取り戻し会話がしたい。そういう無条件に存在を愛する心と、優劣をつける心は、同時に私たちのなかにあるのではないだろうか。同時にあるが、日ごろの生活の中では、放っておけば優劣をつける心の方が優勢で、存在を愛する心は見えにくいのではないか。そのことに気づかせる智慧の眼差しがなければ忘れられてしまいがちなのが、存在を愛するということなのではないか。

先日早朝に、別のある患者さんの看取りに立ち会った。その方は長年寝たきりで入院されており、私が担当してから一度も呼びかけに反応はなかった。そしてそのまま生涯を終えられた。ご家族は、「長いことがんばったなぁ。ご苦労さん、ゆっくり休んでや。」と声をかけておられた。昼過ぎ、いつも回診で訪れていたその部屋に行くと、その方がおられた場所には、誰もいないベッドだけが置かれていた。そのとき、ここに誰も代われない一人の存在があったということを改めて実感した。一度も会話はできなかったが、ここには確かに一つの命を燃やし尽くした姿があったと。何年も見てきたあの姿が、人間でなくて何であろう。意識があるかないかとか、声かけに反応があるかないかとか、そんな私が人間らしいと思っているようなことを遥かに超えた尊い姿がここにあったのではないか。それを見そなわすのが阿弥陀仏の眼差しなのであろう。私たちは、やれ人間らしい会話がないとダメだとか、やれQOL(Quality of Life)が低いとダメだとか、陳腐な価値観で、本来豊かな人間存在を貶めているのではないか。私はこの方を病院に来てからしか知らない。しかし、その存在全体をなげうって教えていただいたことがあるように思った。空のベッドの前で、気づけば南無阿弥陀仏が口から出ていた。

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