存在への感動

[この記事は『崇信』二〇二四年二月号(第六三八号)巻頭言に掲載されたものです]

最近、病院勤務のない日に月忌参りや年忌法要を勤めることが増えてきたが、お勤めのあと故人との思い出話をお聞きしていると、すぐに目頭が熱くなるようになった。センチメンタルになっているだけかもしれないが、深く心動かされることがあるようにも思う。

「感動」という言葉を辞書で調べると、「深く物に感じて心を動かすこと」とある。しかし心を動かすといっても、人の死を悲しむ心を感動とはいわない。それは心を動かすというより、止まってしまうようなことだからだろうか。ただただ悲しいとしかいいようがない。しかしお内仏の前で一人の人生を改めてたずねるとき、ただ過ぎ去ったことではなく、今、深く心を動かして受けとめるべきことがある。

私は感動ということに慎重になるところがある。それによって確かめるべき大事なことがかえって見えなくなるのではないかと思うからである。しかし、深く心が動かされないことに、深く出会っていくということもまたないだろう。ただ頭で納得したところで、自分の思いを超えたことには出会えない。どんな出来事も冷めた目で通り過ぎるだけなら、人生は空しい。

 『崇信』一月号の児玉曉洋先生の『浄土の人民』で、一人の人間の死をどう受けとめるかということについて、ただ死亡したとみるのか、弥陀の浄土に帰られた人とみるのか、と問われる。そして「浄土にてかならずかならずまちまいらせそうろうべし」という親鸞聖人の言葉について、「私たちが永遠なるものにふれる、無量寿に出遇う、そうすると時は過去にあったものが未来に私たちを待っていて下さる」と言われることが心に残った。ただ死で終わる人生であれば、過去を思い出して悲しいというしかなく、過去は過去のままである。そうではなく、歩むべき道を先に歩んで未来で待っておられる、と。

また、「死んでからどうなるかということを想像するという意味ではなくて、死を想うまさにそのことによって生全体の意味を問う」と述べられる。日々のお勤めで、先に歩まれた人の人生をたずねる。それが私自身の生全体の根拠を問いなおすということでなければ、一時の感傷にひたるだけで、お念仏を称えても自己満足である。

私の目の前には仏がいる、つまり老病死する人生を、その輝きを失うことなく生かすはたらきに心動かされ、その歴史の中に私もいる。存在そのものに感動するところに念仏があるのだろう。念仏できる私はここに与えられている。しかし当たり前になった自己の存在には冷めているのである。そんな私に、目を覚ませと呼びかけてくださる方々がおられる。

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