[この記事は『崇信』二〇二四年十一月号(第六四七号)「病と生きる(106)」に掲載されたものです]
「家の中に子どもがいる」夫婦の他には誰もいないはずの家で、そう妻が言う。以前から幻視の訴えはあった。しかし前回、薬を増量してからさらに増えてきたのであった。この方はパーキンソン病のような症状があるが、幻視が強いため、幻視とパーキンソン症状が併存する「レビー小体型認知症」の可能性があった。その場合、パーキンソン病の薬は、身体の動きを改善するが、幻視を悪化させることがあるのである。
夫はしばらく話を受けとめて聞いていたが、あまりに頻繁でうんざりして、「そんなもん見えへん」と言ってしまうという。幻視は、見えている当人からすれば、本当にいるのとかわらないほどリアルに見えるらしい。だから妻の立場に立って夫に言う。本人には確かに見えているのだから、わかってあげてほしいと。そうすると夫はつらそうな顔をされて、毎日言われる身にもなってください、ただでさえ介護で疲れているのに、と言われる。
たいへん献身的に介護されているのを見てきた。だから今度は夫の立場に立って妻に言う。旦那様は奥様のことを大切に思って頑張っておられるのもわかってあげてください、と。そうすると今度は妻の方がつらそうな顔をされて、夫は何もわかってくれない、と言う。
どちらかに立つとどちらかを責めることになる。妻の立場からは、夫は妻の幻視の苦悩をわかっていないと責める。夫の立場からは、妻は夫の介護の苦悩をわかっていないと責める。そしてお互いに責めはじめ、場の雰囲気が険悪になり、妻は泣き出さんばかりであった。
自分中心の見方が、相手の声を聞かず、相手を傷つけているという意味では、そういう態度には罪があるといえる。しかしそのことを外側の他人に当てはめるだけであれば、罪のない側とある側にわかれる。
ところが自分もまた、自分中心で、相手を認められず、相手の存在を傷つけるような在り方をしているという意味では、同じく罪をもつものである。人間であるということの中に、自分中心の見方を離れられないものがあるならば、人間はみな仏法に背く罪を背負っているといえる。だから罪を責めるのであれば、それは当然他人だけではなく自分も含まれているはずである。それなのに自分だけ罪のない顔をして、外側の他人だけを責めてしまう。親鸞聖人は、そのことをよく自覚された方であった。
私はわけしり顔でどちらの声も聞いたようでいたが、どちらの声も聞いていなかったのだ。最もわかっていないのは私であった。そもそも私が薬を増やしたために、幻視が悪くなっているのである。
最後にはお二人に向かって言った。悪いのは何もわかっていない私でした、薬を増やして幻視を悪くしたのも私のせいですから、お二人とも責めないでください。責められるべきなのは私です。そう言うと、お二人から、そんなことはない、いろいろと考えてくれてありがとうと言ってくださった。
「子どもが見える」という症状について、『遠野物語』などにみられる「座敷童子」は、レビー小体型認知症の幻視の可能性があるという医学論文を見たことあった。最初、豊かな文学を脳の異常と言ってしまうのはあまり面白くない指摘だと思った。しかし逆にみればそれなりに意味があることかもしれない。つまり病気を文学が包んでいるとはいえないか。座敷童子がいる家は繁栄するのだという。「子どもがみえる」ということを正しいか間違いかで裁くのではなく、「物語」という形で包んでいるのかもしれない。
考えてみれば、私たちは光を当てられなければ、闇夜で縄を蛇と見て恐れるのである。程度の差こそあれ、みな妄念の中にいるのであれば、そこに光を当てる物語が必要ではないか。人間同士が相対すると、それぞれの立場から相手を裁いて責め合う。その全体を包んで共に妄念を確かめ、しかしただ包まれるのではなく、共にしかるべき方向に導かれるような物語に、共に耳を傾けることが私たちに求められているのではないか。
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