倶会一処

 [この記事は『崇信』二〇二五年七月号(第六五五号)「病と生きる(113)」に掲載されたものです]

二〇二五年五月十六日、父が浄土往生の素懐を遂げた。

遡ること一か月前の四月七日、状態が安定しているとのことで、心筋梗塞の治療をしていただいた大学病院からリハビリができる病院に転院した。歩けるまでは難しいだろうが、食事が自分で食べられるぐらいになることが目標であった。体調がよいときは少し会話もできていたが、食事はなかなか摂れなかった。

四月十四日、喀血があった。腎臓癌が肺に転移しており、そこからの出血であった。幸い喀血は続かなかったが、転移した肺癌からの出血となれば、先が長くないことは容易に予想された。リハビリという段階ではなく、看取りの段階ではないか。話し合いの結果、最期の時を住み慣れた自宅で過ごすべく、退院の運びとなった。

四月十八日、自宅に戻った。路上で倒れていたところを救急搬送されたのが昨年十二月十五日だったので、五か月ぶりの帰宅であった。

自宅での介護が始まった。介護といっても私どもの場合は恵まれている。併設している軽費老人ホーム受念館のスタッフのご厚意により大変助けられた。訪問診療、訪問介護に加え、受念館の元職員の看護師で、今は受念館の入居者となった方も、ご高齢にもかかわらず定期的に血圧などを測りに来てくださった。

母が主に食事の介助をすることになった。母がいない日には、私と弟とで交代で行った。食事は一時間から二時間かけてゆっくりしか食べられない。それでも二〜三割食べられるかどうかである。思えば、こんなに父と同じ時間を過ごすということは最近なかったことであった。

しかしなかなか食欲が出ない。これだったら食べたいと思うものはあるかと尋ねたが、全くないとのことだった。ただ唯一、ノンアルコールビールだけは、すっきりするのか、酒呑みの血が騒ぐのか、すすんで飲んだ。いろんな種類のノンアルコールビールを買ってきて選んでもらった。飲みながら話をしていると、身体はかなりつらいはずであるが、時折冗談めいたことを言った。この状況でよくそんなユーモアが出てくるものだと驚かされた。

四月二十九日、掲示板に掲げる永代経法要の案内を書いたので見てもらった。このころ、話をするのは負担が大きいのか、眠っていることが多く声もあまり出さなかった。かろうじて目をあけて、それでいいという感じで軽くうなずいた。次に、法要が終わったら掲げる五月の法語も見てもらった。今の父に響く言葉は何かと考え、鈴木章子さんの詩「変換」から

「死にむかって/進んでいるのではない/今をもらって生きているのだ」(『癌告知のあとで』七八頁)

を選んだ。見せた瞬間、かっと目を見開いて、しばらく見入っていた。まさに今、父が過ごす一日もまた、終わりに向かっているのではなく、毎日が新しいいのちであった。

あるとき、父が「体調・・・」と言ったので、体調が悪いと言うのかと思ったら、「体調はどうや」と私の体調のことを聞かれたのであった。思いもしなかった。東井義雄先生の詩の一節を思い出した。

憶わぬさきから/憶われていた 私
拝まない者も/おがまれている/拝まないときも/おがまれている
すみません/南無阿弥陀仏。(「墓そうじ」『東井義雄詩集』一六七頁)

墓そうじをしているとき、老いた妻から自分の方が心配されていたという東井先生。そして墓で亡き人たちと対話される。私の思いの外側から、かけ続けられている願いがあると教えられた。

五月十二日、強い胸の痛みを訴えた。心電図は異常がないとのことであったため、転移性肺癌からの痛みが考えられた。往診医に痛みの治療を始めていただいた。

五月十四日、急に呼吸状態が悪くなったという一報が母から入り、往診医もすぐに帰るようにとのことだったので、急遽滞在先の京都から大阪に向かった。弟も向かっているとのことであった。途中の車の中では間に合わないかと思ったが、着いたときには呼吸状態が改善していた。あまり話せなかった父だったが、そのときははっきり「主治医が三人いるから安心だ」と言った。

五月十五日は、大谷大学での講義と、京都の病院での外来と当直があるため、再び京都に行く必要があったが、最期の時に立ち会えないかもしれないというつもりで向かった。

五月十六日、当直明けに急ぎ大阪に戻り、すぐに顔を見に行ったが、比較的落ち着いた様子であった。朝のお参りに行った後はできるだけ父の近くにいるようにした。弟も朝から来ていた。昼過ぎには痰が絡んで苦しそうだったので、私と弟とで痰の吸引をして、少し楽になったようであった。水分は少しでもむせるが、喉が渇くとのことだったので氷を小さくして食べてもらった。

夕方、当直明けで疲れていたので、隣の部屋で少し仮眠を取ろうとしたとき、酸素濃度が上がらないと母から呼ばれた。我々や、訪問看護師も吸引したが十分改善しなかった。あまり吸引するのも苦しそうなので、様子を見守ることにした。

夕食は、父のベッドの横で弟と食べた。形だけ紙コップにお酒を入れて、杯を交わした。

食事が終わりしばらくしたころから、徐々に呼吸が弱くなっていったため、いよいよかと覚悟しつつ往診医を呼んだ。父には伝わったかどうかわからないが、いずれ同じところにいくから待っておいて、とかろうじて伝えた。程なくして下顎呼吸(死の前に陥る下顎を使った呼吸)となったため、止まったり動いたりする呼吸からひとときも目を離さなかった。そして最期の一息を迎えた。涙とともに込み上げてきた南無阿弥陀仏を噛みしめた。

午後十時八分、往診医により死亡確認がされたが、あくまで儀式的なものだと思った。死はただ三徴候などで示されるようなものではなく、もっと厳粛であった。

やはり死は瞬間ではなく道である。亡くなる数時間も道だが、それは生まれてからつづく道である。

「生のみが我等にあらず、死もまた我等なり。」(『清沢満之全集』第六巻一一一頁)

人間として生まれて、その人間としての人生を完成する道とは何か。死を見ることなしには生の完成もない。

父には、最期の一息まで、生きる意欲を失うこと無く、いただいたいのちを燃やし尽くした姿を見せてもらったと受けとめている。ただいのちが終わったということではなく、最期まで人生を輝かせ続けた、そんな一生であったということを、仏教では浄土に往生した人として受けとめてきたのではないか。

そうであれば、浄土で再び会うという「倶会一処」の道は、ただ死を待って開かれるのではなく、浄土に往生するような人生をおくってほしい、人生を空過することなく最期の瞬間まで輝かせ続けてほしい、という願いを聞き、そしてその願いに、置かれた状況において応えることによって開かれるということである。それが念仏の生活であり、そこにおいて願いが私となっていのちが生きるのだと教えられた。

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