病室でふと床頭台に目を遣ると、一通の一筆箋があるのに気がついた。奥様からのお手紙であった。いつからそこにあったのだろうか。傍らには他にも何通も置かれていた。コロナ禍の今、病院では直接の面会はできない。受付で受け取ったものをお渡しすることになっている。そうして手紙が届けられているのであった。
面会禁止によって、病院に外からウイルスを持ち込むリスクは抑えられ、幸い今のところ病院内で新型コロナのクラスター(感染者集団)は生じていない。そういう意味では生命が守られている。しかし、入院している患者の立場に立てば、一年近く誰も面会に来ないということのさみしさは、如何許りだろうか。ましてや脳の疾患があって、状況が十分把握できなければどうだろうか。ただただ自分は見捨てられたのだと、空しく過ぎる時に投げ込まれるかもしれない。新型コロナは直接生命を奪わなくても、「時」の内容を奪っていくということがあるのではないか。奥様の手紙は、生命の時間を回復する潤いをもたらすものなのかもしれない。また、その言葉にはやさしさが溢れていた。正しさばかり主張して棘のある言葉が飛び交う昨今、やさしい言葉は触れるだけで嬉しくなる。
ところで、この方が抱えているのは進行性核上性麻痺という疾患である。基底核、脳幹などの神経細胞が減少していき、歩けなくなる、話せなくなるなどの症状が進行する。場合によって認知症も合併する。この方の場合、すべての症状が重篤で寝たきりであり、会話はできず、食事もできないため、栄養は胃瘻から補われている。認知機能障害も進んでおり、手紙を読んで返事をするということはとてもできない。だから手紙には意味がないという人もいるかもしれないが、それでもリハビリのスタッフは奥様の手紙を読み上げている。そうしてリハビリをする姿を見ていると、一日をただ生きることが、奥様へ返事をされている姿のようである。
とはいえ、実際にどのような時を過ごしておられるのかをご自身にお聞きすることはできない。外から見て想像しているだけで終わらないためには、自分はそのような状況にどう応え、どう生きるのかという問いとして受け止めなければならない。私は「一日をただ生きることが手紙への返事であるような時」を過ごせるのか。そういう「時」を開くことができるのだろうか。児玉曉洋先生はこのように述べられる。
時の経過の中における歴史ではなしに、典型としての人間、念仏者の中から開かれた歴史です。念仏ということが成り立つ内側から、歴史が開かれるのです。時の経過の中に起こる出来事ではなしに、自分の中から時を開くようなものですね。 (「念仏の中より開かれる歴史と社会」『児玉曉洋選集第二巻』三一頁)
時の経過の中で、起こってくるさまざまな出来事があるが、その中から自分にとって都合のよい出来事を選んで経験したいというのが我われの常である。しかしそれはただ時の中にあるだけであって、内側から「時」が開かれるということではない。自分にとって都合が悪い出来事が起こると、時に翻弄され、時はとたんに空しくなる。念仏が成り立つとき、「時」は自分の内側から開かれる、つまり流れ去る時ではなく、一念一念に「時」が生み出され、空しく過ぎることはないのだという。それはどういうことなのだろうか。
一生を空しく過ごしてしまうのか、それともそこから新たな人生が始まるのかという、緊張関係を保っているような時の質を成り立たせている根本が、弥陀の本願という言葉なのです。その本願に応答するか否かということが、刻々に迫られているような時なのです。(同上、三三頁)
やさしさに溢れた手紙が届くとは限らないが、本願という手紙はいつも届いている。一通一通に応えて生きるところに「時」が開かれる。それはたとえ文字が読めなくても、身体が動かなくても返事をすることができるはずである。私を見捨てず届けてくださるのに、筆無精である。
[『崇信』二〇二一年五月号(第六〇五号)「病と生きる(66)」に掲載]
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