思いと存在と智慧(3)

[この記事は『崇信』二〇二四年一月号(第六三七号)「病と生きる(97)」に掲載されたものです]

前々回から、「立ち直りの物語」を批判する頭木弘樹氏の言説を確かめている。「「病気のおかげで」は本当?「立ち直りの物語」を求める心理の正体」(朝日新聞デジタル)では、病気のおかげで大事なことに気づいたという語りは、病の苦悩の中では立ち直りを迫られる圧力に感じ、倒れたままでいいというメッセージが救いになったと言う。それに対して二つの疑問を挙げた。一つ目の疑問については前回確かめた。今回は二つ目の疑問、倒れたままでいい、ということも圧力になりうるのではないか、ということについて考えたい。

似た表現で「そのままでいい」「君は君のままでいい」などと、世間や歌の歌詞でもよく聞くことがある。仏教もそう言っていると受けとめるかたもあるかもしれない。しかし私の場合は、「そのままでいい」という言葉は力にならず、それこそそのままを受け入れるよう迫る圧力にも感じた。目の前の患者さんにも安易にそのような言葉はかけられない。倒れたままでいられないから苦しいのである。そのことについて、加来雄之先生のこの言葉に大きく頷いた。

「そのままの救い」という言葉を聞くことがある。君は君のままでよい。そのままでよいのだ。賢いとか愚かとか、役に立つとか立たぬとか、世間の価値観に押しつぶされ喘いできた私たちに「そのままでよい」という言葉は温かく響く。世間の価値観の呪縛から救ってくれる。その意味では、この言葉はこの世からなくしてはならない大事な語りかけである。しかし「そのままでよい」という言葉は、或る安堵を与えてくれても、私たちの最終的なよりどころにはならないのではないか。(中略)なぜ「そのまま」だけで終わってはいけないのか。その理由は、これまで私たちは、これまでも「そのまま」であったし、そのなかで私たちは喘いできたからである。「そのままでよい」が、喘ぐことへのアキラメという現実の肯定になったり、喘いできたみずからの歴史から目を背けるという現実からの逃避に終わってはならないからである。私たちは喘いできた現実にきちんと向き合い、はっきりとその正体を知ることによって、「そのまま」は「そのまま」であることを変えることなく、次の「ありのまま」の私という課題へと移っていくのである。(「「そのまま」と「ありのまま」」『彰見寺だより』一八五号、六〜七頁)

「そのまま」ということが「思い」であれば、「そのまま」を受けいれてあきらめよ、あるいは、何も考えずに「そのまま」楽しいことだけ考えて欲望のままに生きよ、ということになりかねない。それではいつまでも「思い」と「現実」は二つに分かれたままである。喘いできた現実の正体を知りたい、と私は思う。

「そのままの君でよい」とは、「ありのまま」の自分が見えるときにはじめて実現するのである。なぜなら私たちの事実は、私たちの思いのままにではなく「ありのまま」という私たちの身の事実にあり、そこだけが私たちの立ち上がる原点であり、歩み始める出発点だからである。(中略)「ありのまま」とは思いをはなれた事実のことである。「ありのまま」とはとらわれない曇りのない清浄な眼でしか見えない事実である。(同上、七〜八頁)

「ありのまま」とは「思い」をはなれた身の事実である、と。「そのまま」も「ありのまま」も、自分の「思い」の中でしか見えないから、違いがわからなかった。思いもよらないことに気づかせていただいた。ありのままという「存在」の事実は、「思い」をはなれた「智慧」によって初めて気づかされると仏教は言うのではないだろうか。だから「倒れたままでいい」といっても、ありのままを生きた人の智慧との出会いがあって初めて、存在を肯定する眼差しに触れられるのである。

そのことは、唯識三性説について、『唯識三十頌』第二十二偈において「非不見此彼」(此(円成実性)を見ずして彼(依他起性)をみるものには非ず)と述べられることに関係するのではないか。円成実性は、遍計所執性を依他起性から除いたものとも説明されるが、それではよくわからなかった。それに、「思い」(遍計所執性)を除いて「存在」(依他起性)を見よといってもなかなかできることではない。安慧釈では、「〔依他起性は〕それ(出世間智)の後に得られた清浄世間智(後得清浄世間智)によって知られるべきもの」と解説している。そのことと、これまで確かめたことを踏まえて、この第二十二偈を次のように受けとめられないだろうか。

本当に満ち足りた人生の姿(円成実性)は、出世間智によらなければ見えないことである。しかし一人の人間に、満ち足りた人生を送った人として出会うということがある。その出会いによって、自分の「思い」(遍計所執性)が破られ、思いのなかの「そのまま」ではなく「ありのまま」に目覚めて生きることが始まるということが起こりうる。なぜそれが起こりうるのかといえば、出世間智との出会いは後得清浄世間智としてはたらき、その智の眼差しによって「存在」(依他起性)が見られたとき、存在は個性という輝きをもって浮かび上がり、ありのままに生きることが支えられるからである、と。

「立ち直り」も「倒れたまま」も、自分の「思い」であれば結局行き詰まる。「智慧」に出会い、「思い」(自我)で見えなくなっている立つべき「存在」(自己)がありのままに照らされたとき、立ち直るのでもなく、倒れたままでもなく、ありのままに帰って生きたいという意欲が与えられるのではないだろうか。