孤独な選択

 病院では様々な場面で治療の選択を迫られることがある。他の疾患もそうだが、神経疾患ではときに厳しい選択となる。これまでにもとりあげてきたALSきんいしゅくせいそくさくこうかしょう筋萎縮性側索硬化症)という疾患は、進行すると呼吸ができなくなる。呼吸は筋肉が胸郭を広げることで行われている。筋力低下で胸郭が広げられなくなるため、人工呼吸器の力によらないと呼吸ができなくなる。

 人工呼吸器を装着して日常生活をされている方もおられる。一方で、後に苦痛のために人工呼吸器を中止したいと思っても、それは死に直接結びつくため現在の日本ではできないことになっている。そのため病状が進行すると、人工呼吸器を装着するかどうかの選択を迫られる。

 その選択は本人の意思を尊重するとされ、我々はしばしばそのことを当然のことのように思う。「自分の意思が大事」「自分が満足することが大事」などという。しかし自分の意思とは何か。満足とは何か。ある方はこうおっしゃった。自分としては人工呼吸器をつけて少しでも長く生きたいが、家族に負担をかけたくないからつけない、と。またある方は、そこまでしたくはないが、息子がつけてほしいというから、とおっしゃった。別の方は、自分には誰も介護してくれる人がいないからもういいといわれた。初めはつけないと決めていたが、病状が進んで意思が変わった方もあった。どちらがよいか決められないという方もおられた。自分の意思といっても、家族や経済的状況、身体の状態、これまで影響を受けた思想など、自分以外の様々なことがらによって、矛盾や葛藤を抱えつつ成り立っているといえる。それにもかかわらず、我々はときに「自分で決めたのだから納得しなければならない」などといい、「自己責任」という言葉もしばしば使われる。

 病は孤独である。今まで行けたところに行けなくなり、人間関係を損なうこともある。また「この苦しみは誰にもわかってもらえない」と、ときに突き放された思いをする。そのような状況の中で治療の選択が迫られる。「あなたの意思を尊重します」というのは、一見個人を大事にしているようで、過去の無数の出来事を背景として成り立っている選択の責任を決断した一人に押しつけ、一層の孤独へと陥れているのではないか。自己責任という言葉を軽々しく使うことはできない。しかし一方で、選択した結果を受け止めるのは自分しかいないこともまた事実だろう。では完全なる自由な意思とそれに伴う責任、その結果としての満足とは何か。

 「自己とは他なし、絶対無限の妙用に乗託して、任運に、法爾に、此現前の境遇に落在せるもの即ち是なり。」(清沢満之『臘扇記』)

未来の可能性は本来無限にある。しかし現在の私は有限の選択枝しか見えず、その中から〝自由な意思〟で孤独に選択する。そんな孤独な選択の責任を共に引き受ける存在がある。これまで共に引き受けてきた存在があった。そのことに触れて初めて、境遇に左右されず誰もが「現前の境遇に落在」し、孤独ではあるが自由に歩める世界が開けるのではないだろうか。

[『崇信』二〇一六年四月号(第五四四号)「病と生きる(8)」に掲載]

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