かえがえのなさ

 パーキンソン病は手が振るえたり動作が遅くなったりする病気である。根治療法はないが症状を改善する治療薬があり、他の神経難病に比べると治療による改善が望める。それでも進行してくると嚥下障害により食事が取れなくなることがある。先日も、薬や栄養の摂取のために、「胃瘻」と呼ばれる胃に直接栄養を送る穴をつくるかどうか、ご家族と相談する機会があった。元気な頃から自然に最期を迎えたいと言っていた、彼女らしく最期を迎えさせてやりたい、ということで、胃瘻造設を望まれなかった。

 医療や介護の理念としても、その人らしく生きられるように、などということをよく耳にする。しかし、その人らしく生きる、その人らしく死ぬとはいったいどういうことなのだろうか。

 あるターミナルケアの現場の話で、その人がしてきた仕事に関することができるような環境をつくる、ということを聞いた。ピアノの先生ならピアノを弾けるようにとか、大工さんなら工作ができるようにとかである。それはそれで一つの営みとして否定されるものではないが、それでは「仕事」や「役割」にその人らしさがあるのだろうか。また、それができなくなったらその人らしさを失うのだろうか。

 ではその人が欲しい物を手に入れたり、やりたいことをすることが、その人らしいということだろうか。食べたいものを食べ、行きたいところに行く、欲しい物を手に入れる、そういうことにその人らしさがあるのなら、自分らしさは自分の外にあることになる。常に外のものが手に入らない不満と、やりたいことができなくなる不安の中で、外物に振り回されて生きなくてはならないのではないか。むしろその人らしく生きることを障げるものではないか。

 そのことを受けて、その人らしさ、自分らしさ、本当の自分などというものはない、ということも聞かれる。そのようなものを求めるから、今の自分に満足できないというわけである。確かに、自分が決めた「本当の自分」なるものを掴み、どこにでも自己を認めようとするあり方は、現実のいのちを覆い隠してしまうということがある。しかしいま、「自分らしさ」が問題となったということは、その問いの根源は、これまで自分だと信じてきたものが老病死によって崩れ、どこにも確かな自分がないというところから発せられているのである。先日も難病の患者さんが「私からすべてが無くなってしまったようだ」とおっしゃっていた。つまり問いをいいかえれば「かけがえのない自分とは」「一人の人間が人間として生きるとは」「私が私として生きるとは」ということが問題となっているのである。このような問いに対して本当の自分などないというのは、答えにならないだけでなく、今まさに生きようともがいている、かけがえのない現実すら否定するものではないか。

 そのいのちの底からの苦悩はときに「誰にもわかってもらえない」という思いに駆られるが、裏を返せば私しか持ち得ない、かけがえのない苦悩である。しかし同時に人間であるかぎり誰もがもつ苦悩でもある。

 「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。」(『歎異抄』第十六章、真宗聖典六四〇頁)

自らの苦悩に対してどのような態度を取るか。最期まで人間として生きようとするという意味で普遍的な意欲を依り所とすると同時に、自らの苦悩に対する態度決定という意味で、そこにはかけがえのない自己の決断があるといえる。

[『崇信』二〇一六年十一月号(第五五一号)「病と生きる(15)」に掲載]

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