苛立ち

 しばらく入院生活が続いていた人が、ようやく退院できるようになった。「やっぱり健康が一番ですな」「そうですな」という会話が挨拶のように交わされるのをよく耳にする。長らく療養生活が続くと、そう言いたくなるのも無理はない。これまで難病のことをよく取り上げてきたが、治療できる病気であっても、様々な点で生活に影響を与えるのであり、自らかかりたい人などいるはずもない。

 一方で、病気を気にするあまり、毎回外来で自分の身体の変化をびっしりとノートに書き込み、それぞれの症状について、「この症状はこの病気の徴候の可能性はないか」「こんな症状があるのだが検査する必要はないか」「この薬を調べるとこんな副作用があると書いてあるが飲んでも大丈夫か」などと事細かに尋ねてこられることがある。「その症状、放っておいたら大変なことになりますよ」などと煽るテレビ番組の言葉がそれを助長する。

 一日中、自分の身体のことばかり考えている姿を見て、「健康が一番」というが、「あなたにとって健康よりも大事なものはないのですか」「健康であって、そして何をしたいのですか」「健康でなかったら生きる意味はないのですか」と問いたくなる。その健康法を求める執拗さに、時に多少の苛立ちさえおぼえながら。

 その苛立ちはどこからくるのか改めて確かめれば、それは難病患者さんからの問いに行き着く。いわゆる〝健康〟を望めなくなった状況で、しかしそこで生きる意味を確かめ、人間として人生を全うするとはどういうことか模索し続ける人たちの問いがあり、またそれに応えて道はここにあると示す仏の智慧がある。その身を粉にしての問答に背を向け、生活を失っているのではないか、という思いからの苛立ちである。

 しかし、ひとたび自らに病が迫るとき、病はそんな生きる意味や理想としての人間像を確かめようとする意欲を吹き飛ばし、ただ人生が、健康であるための手段と化してしまうほどに私を拘束するのである。健康か病気か、快か不快か、生か死か。前者を経験するための戦いに勝つか負けるか、人生がその為の手段として消費される。仏教は、それを乗り越えて、人生が人生として円満であってほしいという願いを伝える。その願いが「生理学的な死」を境に急に実現する道理はない。むしろ、人生の終着点が生理学的な死であるとして、あるいは未来に対する絶望という意味での死として、人生の意味を失っているような「死への生」をこの身において乗り越え、新たな人生が始まることを喜ぶのでなくて、どこに喜びがあるだろうか。

生は尽きた、梵行は成就した、なすべきことはなしおわった、ふたたびこのような事態をまねくことはない。(パーリ律大品、宮下晴輝訳)

しかし、そんな新たな人生を拒絶する人を向こう側に見て苛立ちをおぼえるなら、その苛立ちもまた、健康法に囚われた意識と同様の分別意識から起こったものであろう。そこに何が欠けているか。そこには自己への悲しみがない。

[『崇信』二〇一八年三月号(第五六七号)「病と生きる(31)」に掲載]