第2回 老病死の問題とは何か

前回は、筋萎縮性側索硬化症(ALS)の患者さんの言葉からはじめました。

第1回 「医学の学び」と「仏教の学び」

2020年3月21日

「どうせ死ぬなら殺してほしい」——もう死んでしまいたい。自らが問われていない私は、その「死にたい」という声の奥にある叫びを聞く耳をもっていませんでした。安田理深という仏教の先生はこのようにいいます。

我々は叫びを聞く耳というけれども、叫びを耳として持っているのでしょう。(中略)だから人の言葉を聞くのではないのであって、経典の上にかえって私の声を聞くのです。私を見出すわけですね。(安田理深『教行信証講義ノート—化身土巻(六)』

ここで「経典の上に」とありますが、「患者さんの言葉の上に」ということを重ねてもよいかと思います。自分の苦悩が、相手の苦悩を聞く耳となる。相手の苦悩を知るということは、かえって自分の奥底にある心の叫びを知ることである。そのようにいいます。

ですから、医者としてという立場からではなく、人間として何に苦悩するのかという立場で、「死にたい」という言葉の奥にある叫びを確かめなければなりません。

そういう言葉を聞いて、たとえばカルテに希死念慮(死にたいと思うこと)ありとか、自殺企図(自殺を企てること)に注意などと書いたりするのを見かけます。そしてそれをどう治療するか、という発想です。このことは、苦悩を単なる心理的な反応と見ていることの表れともいえます。

どうしても、死にたいという苦悩の気持ちをどうしたら無くせるか、と考えます。誰しも、そんなことを言わずに喜びのある時間を過ごして欲しい、少しでも長く生きて欲しい、何としても死んでほしくない、と思います。確かに治療を施すという観点も必要でしょう。しかし、苦悩を治療すべき心理的反応としてしまった瞬間、その苦悩は無くすべき無意味なものとなり、その苦悩の中身を聞かなくなってしまうということがあるのではないでしょうか。

では、「死にたい」という声をどう聞かなければならなかったのか。それは、

ほんとうは生きたいのに、今の状況では生きられない。

そう聞かなければならなかったのではないか。さらにいえば、人間として生き抜きたいのにそうできない。なぜこんな苦しい目にあわなければならないのか、もう生まれてこなければよかったとまで思う。人間として生まれたことを喜べない。そういうことを、言葉の奥に聞かなければならないと受け止めています。

それは、私自身に、このような問いを投げかけられたとも言えるのではないかと思います。

あなたは生きがいを失って生きられるのか?

と。

あなたにとって生きがいとは?

あらためて「生きがい」とは何か?と問われると、なかなか難しい。「生きがい」というとわかりにくいなら「喜び」といってもいいかもしれません。みなさんは何を思い浮かべるでしょうか?強い意思をもってこれだ、というものもあれば、なんとなくこれかな、というものまで、いろいろあると思います。

仕事が生きがいという方や、家族や子どもが生きがいだという方もおられるでしょう。趣味が生きがいという答えもありうる。たとえば旅行に行くとか、おいしいものを食べるとか、友人とお話しするとか。

では、その生きがいはどんなときにも失われないものでしょうか?

 

ALSは運動神経が障害されていきます。

まず、自由に動けなくなります。多くの場合仕事もできなくなる。仕事が生きがいであれば、その生きがいを失うことになります。

いや、仕事ができなくても、おいしいものが食べられれば…。しかしALSでは嚥下障害(飲み込むことができなくなる)が出てきます。食べることが生きがいであれば、それを失うことになります。

いや、食べられなくても、人とお話ができれば…。しかしALSでは話すことができなくなります。話すことが生きがいであれば、それを失うことになります。

このように症状が進行し、今までできていたことができなくなっていきます。今まで生きがいだと思っていたことが、どんどん崩れていく。今まで喜びだと思っていたことに信頼が置けなくなってしまう。いったい今の自分は何が喜びなのか?生きている意味があるのか?そういう疑いの中に投げ込まれてしまうのです。

信仰とは特殊なことではない

実は「信仰」ということは、こういうことを問題にしているということを知りました。それは仏教に限らず、およそ宗教ということはこのことを問題にしているはずです。

信仰といってわかりにくくなるなら、「信頼」といってもいいと思います。「これこそが人生の喜びだ」「こういう人生には意味がある」と考えて、それを信頼している。

たとえば、みなさん朝起きて食事をします。ではその当たり前のことを一度、何のために?と目的を問うてみます。すると仕事にいくため、学校にいくため、などと答えます。ではなぜ仕事に行くのか?と問われると、お金を稼ぐため、家族のため、となります。そのように、仕事、学校、お金、家族…そういったものに何かしら「意味」があると「信頼」しているから、生活がなりたつと言えます。人間の生活の基盤に「意味」と「信頼」がある。それぐらい人間にとって大事な問題です。

ところが、その信頼を崩すもの、生きる意味、生きる喜びを奪うものが人生を襲います。その代表が「老」「病」「死」です。

これこそ生きる意味だと今まで思っていたことが、すべて崩れていく。まわりを見渡してみても何も信じられるものがない。今まで喜びだと思っていたことに信頼が置けなくなるそして信頼が崩れて疑いの中に放り出されるのです。すると「朝起きて食事をする」ということもできなくなってしまう。「生命」としては生きていても、”いのち”が生きられなくなる。自分が自分として、人間として、生きていけなくなる。それほど、信頼は人間にとって大事な問題なのです。ですから、信仰ということは、”いのち”を生きる上で、どんな人にとっても大切な問題を扱っていると言えます。

老病死の苦しみにはこういう問題があるということを、患者さんの言葉と仏教を通して教えられました。

四門出遊の物語は何を意味するのか

経典にはこのようにあります。

見老病死、悟世非常、棄国財位、入山学道。
(老病死を見て、世の非常を悟り、国と財と位とを棄て、山に入りて道を学ぶ。)[『無量寿経』]

これは、お釈迦さまが王子であったころの物語がもとになっています。「四門出遊《しもんしゅつゆう》」とよばれる、青年のころのお釈迦さま(青年ゴータマ)が出家をするときの物語です。カピラヴァストゥの王宮にいた青年ゴータマが、東の門から出て老人に会い、西の門から出て病人に会い、西の門から出て死者に会い、北の門から出て沙門《しゃもん》(出家者)に出会い、出家していくという物語です。

老病死を見て」とあります。私は医学的には「老病死」を見ていたはずでした。しかし老病死の苦しみの中身を見ていなかった。「生きる意味」「生きる喜び」を失うという苦しみを見ていなかったということです。「世の非常を悟る」ということは、そのことについて語っています。「非常」というのは「無常」と同じ意味です。「悟る」というのはここでは「理解した、知った」というぐらいの意味です。「無常を知る」ということは、ただはかないことを知ったというだけなく、生きる喜びが崩れることを身をもって知ったという意味だと受け止めなければなりません。

では、生きる喜びが崩れて、確かなものが何も無くなって、それも生きていけるか?そう問われます。

それに対して、確かなものなど無いんだから、楽しいことを探してなんとなく生きればいいじゃないか、という考えもあるでしょう。そんなものはもう何も無いんだ、絶望だ、といって生きられなくなることもありうる。しかし青年ゴータマはそのどちらの態度もとりませんでした。

国と財と位とを棄て、山に入りて道を学ぶ」とあります。青年ゴータマは老病死を見て、出家したわけです。漢字で「出家」という言葉を見ると、家を出ると書きますから、家出するのとそんなに変わらないようで、現実逃避のようにも見えてしまいます。しかし「出家」の原語(サンスクリット語)はpravrajita(pra√vrajという動詞の過去受動分詞)という言葉で、「前に向かって歩み出す、出発する」という意味です。つまり、絶望の中から歩み出した、という意味があるわけです。

絶望の中から苦しみを越える道を歩み出したということは、老病死によって崩れないような”いのち”を全うする道を歩み出したということであり、それは人間として全うする道を歩みだしたといえます。そういう人物がお釈迦さまだということです。

このように、お釈迦さまの歩みは「老病死の苦しみ」から始まっているわけです。ですから仏教は何を問題にしているのか、仏教の問題領域は何かといえば、「老病死の問題」であるということができます。

ではその苦しみを越える道とは何か。そのことを、お釈迦さまの歩み、そして病と向き合う人たちの歩みを通して、学ばせていただきたいと思っています。

次回は、私たちは何を生きる意味と思っているのか、なぜ人間は意味が必要とするのか、という問いを手がかりにして、「苦しみ」ということの中身について、さらに確かめていきたいと思います。

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