葛藤に立つ

認知症で通院している患者さんのご家族から、「すぐに怒るようになった」と相談があったことを以前紹介した(『崇信』二〇一九年五月号「病と生きる(45)」)。患者さんご自身は、家族がいる時は何も話されず、二人になったときに、生きがいが崩れる喪失感や、確かな居場所が崩れる孤独感といった心境を語られるのであった。しかしその後、ご家族のほうは度重なる暴言で疲弊してきていた。患者さんとご家族との間にある溝を埋めたい。そういう思いで認知症勉強会を企画した。

認知症勉強会というと普通は医学的なことを学ぶ。しかし認知症は、医学的には高次脳機能障害であるが、その結果、人間関係が崩れる。例えば手を怪我して「物を持てない」ということであれば、心配こそすれ、関係が崩れることはない。しかし「記憶を保持できない」という認知症の場合、「さっき言ったでしょう」と苛立ち、かえって溝が深まる。そこで、「認知症とは何か?—「人間として」の立場から学ぶ」と題して会を開いた。

講義の中で、NHKの番組「TVシンポジウム・認知症を正しく知る~本人にも家族にも優しい支援とは~」(二〇一八年二月一〇日放送)に出演された太田正博氏のことを紹介した。認知症本人の声を発信しようと講演活動をされてきた方である。しかし認知症が進行し、トイレの場所や尿意がわからなくなってきていた。トイレを失敗しないようにと妻の栄子さんが手助けしようとしたそのとき、激しく声を荒げてこう言った。「人のものを全部持っていく!」——それは怒りというより悲しみに聞こえた。これこそ自分だと信頼してきたものが失われていく悲痛の叫び。失敗しないようにという家族の配慮も、本人からすれば自分が奪われるという喪失感、失敗を責められるという疎外感となる。そんな確かな自分と確かな居場所が失われる悲しみは「同じ人間として」わかることではないか。怒りの声の向こう側にそのような悲しみがある。そのことは、怒りを「前頭葉機能が低下しているから、感情を抑えにくくなる」などと医学的に説明しても見えてこない。

講義のあとで患者の息子さんから質問があった。今日聞いたことを踏まえて、家に帰って実践したいのだが、現実に父が母に暴言を吐いて、母が疲弊しているのを見ていると、どうしても父に怒りが湧いてきてしまう。どうしたらよいか、という葛藤を話された。

この会には小学生のお孫さんも参加してくれた。「病と生きる(45)」の中で、崩れていく生きがいの一つに、お孫さんの成長のことを書いたが、そのお孫さんである。おじいちゃんのこと好き?とたずねると、好きではないという。遊びに誘っても部屋から出てきてくれないからだと。何でかな?とたずねると、「こわく言っているから…」と。隣でお父さんが「私たちがそうさせているのかもしれない」とおっしゃった。

一緒に遊べる将棋をしてみるが、負けそうになると将棋盤をひっくり返してしまうこともあったらしい。孫にいいところを見せられなかったからだろうか。確かな自分、確かな居場所が崩れることを突きつけられたような思いからだろうか。それも病気と闘っている姿なんじゃないか、一緒に遊びたいと思っても、○○君がどう声をかけたらいいかわからないように、おじいちゃんもどうしていいかわからないんじゃないか。そんなことを皆で少しずつ確かめた。

おじいちゃんの好きなところをたずねると、こんな答えが。「爪を切ってくれるところ」——場が和んだ。大切に思っているからこそ、葛藤がある。無関心になれば葛藤もない。その葛藤を大事にしておじいちゃんを知り、人間を知る学びを続けていきませんか、といって今回は終了した。

終了後に同じく暴言で苦しんでいる方が来られて、自分は言葉の奥にある気持ちを聞こうとしていなかった、自分を見つめなおすきっかけをもらったと涙ながらに語られた。問題を共有することを通して、人と人とがつながる場が開かれればと思う。

[『崇信』二〇二〇年十二月号(第六〇〇号)「病と生きる(61)」に掲載]

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