マスクをめぐって

いまやマスクをして出歩くのは当たり前の光景となった。仕事で一日中マスクをしてきた私としては特に違和感がないが、慣れない方は大変かもしれない。医療従事者が常にマスクをしているのは、感染抑制に一定の効果があるからであり当然のことであったが、新型コロナが出始めたころは効果がないという意見も見られた。自分がしたくないことを支持する見解を信じてしまうものなのだろう。マスクは飛沫の拡散や吸入を減少させるだけでなく、吸気の加湿や加温、直接口を触ることを防止するなど感染予防に効果があるので、皆さんぜひ実施していただきたい。

しかし、マスクで感染を完全に防げるわけではないし、全員がきちんとできているわけでもないから、旅行など人の移動は感染拡大につながる。外食などマスクを外さざるを得ない状況はなおさらである。今自分のしたいことは、人の命を奪ってまでほんとうに欲することなのか、と慎重に考える必要がある。それにもかかわず、政府は”GO TO キャンペーン”などと、わざわざ自我の欲求を助長する政策を進め、その結果医療体制が逼迫、治療すべき人が治療できない状況に陥った。先日も、小学生が事故で大けがをしたが、新型コロナのために近くの救急病院で受け容れられず、搬送に四十分かかって亡くなったという痛ましい出来事を聞いた。治療できる人が治療できない、そんな医療者の危機感と患者さんの不安を日々耳にする。経済を守ろうとしたのかもしれないが、守りたい命を守れないような社会になった。そういう社会にしてまで欲したものとは何か。そして今度は一転してキャンペーンは中止し緊急事態宣言。全く正反対のことをしながら誤りも認めない。

批判が高まってきたから止めるというだけで、どういう社会にしたいのかという理念も見えない。せめて「自分の子どもがけがをしても、普通に治療を受けられる社会を守りたい」ということがあれば、対応は違っただろう。少なくとも市民には会食を控えるよう呼びかけておきながら、自らは会食をするようなことはありえない。理念がないから、自分の行動がどういう影響を与えるのかという自覚もない。医療者の多くは、自分の不注意が人の命に関わるという自覚を持って普段から行動しており、為政者の行動をあきれた気持ちで見ている。

一方で、感染予防という観点に偏ると、今度は感染した人を自覚がないなどと責めることになる。普段から気をつけているのに感染した人が私の知る中にもいる。自覚だけで防げるものではない。

先日ある患者さんが、マスクをせずに手に持って診察室に入ってきた。これだけ言っているのになぜ、と思いながらマスクするようにお願いした。カルテを書きつつふと振り向いたら、脳梗塞で右腕に麻痺があり片手でつけにくそうにされていたので、慌てて手伝った。一度皆さんも片手でマスクをつけてみてほしい。非常に難しい。少し考えればわかることだが、責める気持ちが先に立つとそんなことにも気を配れなくなる。

発達障害をもつお子さんの中には、お母さんがマスクをしていると顔が欠損したように見えて恐がってしまうことがあり、お母さんがつけられない、ということを聞いた。考えもしなかった理由があることに気づかされる。

せっかくマスクをしているのにすぐにずらしてしまう人がいる、と世間話をしていたら、「ほんとですねえ」といったその人が次の瞬間、マスクをずらして話しだした。無意識にしてしまうことは誰にでもある。機械のように思いのままに行動できるわけではない。そこに心がある。

自分の欲求を満たすために飲み歩き、感染を拡大させ他者の命を奪うことも、自分の正義を主張して他者の心を傷つけることも、どちらも自我が他者を抑圧するという意味では共通しているといえる。そんな自我への悲歎がなければ、他者の痛みを知ることなく、感染拡大を防げないばかりか、ソーシャルディスタンスではなく心の距離を遠ざけることになる。

[『崇信』二〇二一年二月号(第六〇二号)「病と生きる(63)」に掲載]

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