ある当直の日のことだった。病棟は落ち着いており、何事もなく朝を迎えられそうだと思いながら眠りについた。
午前三時頃、電話が鳴った。看護師が非常に切迫した調子で「とにかく来てください」という。急変かと思ったがそうではなかった。患者さんが警察を呼び、自身も警察についていくと言って騒いでいるという。
病棟に行くと、携帯電話を握りしめ、顔を強ばらせて詰所に立っている女性の姿があった。「病院の外で大きな鶏の骨を持った男に襲われた。警察署に行って事情を説明しないといけない。」という。看護師は「そんなことはあるはずがない、といくら説得してもダメなんです。何とかしてください。」という。患者さんは「誰も私の言うことを信じてくれない。」といってますますいらだっている。
病院の出入り口は鍵が閉まっている。外に出られるはずがない。「鶏の骨を持った男」というのも、いかにも現実ではなさそうな話である。カルテを見ると「レビー小体型認知症」と記載されている。幻視や妄想を起こしやすいといわれる。
「ゆっくりお話を聞かせてください」といいながら、部屋に戻ってもらう。しかし、話を傾聴しようというのは外向きであって、内心ではどうやって説得しようか、などと思いながら聞いていたのであった。それはすぐに見破られる。「やっぱり先生も私の話を信じてくれない。誰もわかってくれない。」
そう言われたとき、ふと自分のことに思いを巡らせた。今自分が置かれている境遇や、自分を襲う様々な苦悩や葛藤。他者からみれば些細なことであったり、理にかなわないことかもしれない。しかし悩んでいる本人にとってみればリアルな、現実そのものなのである。
今目の前で訴えるこの方は、真に迫った口調で非常にリアリティーを持って「鶏男」の話をされている。そのような男は実際には幻である。しかし、現に恐怖に震えていることは事実である。では、彼女にとって自分を脅かす存在とは何なのか。私にとって行く手を阻む〝鶏男〟とは何なのか――。説得することを止め、その方が現に向き合っている恐怖の心を聞こうと決めた。
しばらくしてその方は、繰り返し話していた襲われた話ではなく、自分の過去の苦労話など一時間半に及び様々な話をされた。そして最後には今活躍している息子さんの話になり、落ち着きを取り戻された。すると今まで拒んでいた幻覚を押さえる薬を自ら飲み、眠りについたのであった。
結局〝鶏男〟とは何なのかはわからなかった。しかし翌朝もう一度伺うと、全く忘れていると思われた昨夜の私との会話をよく覚えておられた。ぜひ息子の店に一度行ってやってください、と言われた。
つい、本当にその店はあるのか確かめたくなって、看護師に聞いてしまった。しかし、店の有無を確かめるよりも、昨夜、彼女と自分が、人と人としてどういう関係を築いたのか、どのような心で彼女の苦悩と向き合ったのかを確かめる方が、人間における真実の問題にとって必要なことではなかったのか。いかに自分が関係性よりも目に見える外界の事物に真実を求めているのかがわかる。
[『崇信』二〇一八年二月号(第五六六号)「病と生きる(30)」に掲載]
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