泣いている理由

 「患者さんが泣いています。一度診てください。」担当の患者さんではなかったし、心の問題は精神科の領域となる。私の専門分野は神経内科だが、よく精神科と混同される。心の病は精神科や心療内科が担当で、神経内科は脳卒中やパーキンソン病などの脳や脊髄、筋肉の病気を診る科である。

 看護師が言うには、その方は脳卒中の既往があり、認知症もあり意思疎通が全くとれない。そしてちょっと泣くのではなく、少し話しかけるだけでかなりの長時間泣きつづけるため、今回の症状は脳卒中の症状である「感情失禁」ではないか、というのである。「感情失禁」とは、外界の些細な刺激で泣いたり笑ったりするというように、抑制がきかず感情が不安定な状態をいう。神経内科領域の可能性もあるということで、診察することとなった。診察前、別の看護師は「私にはわかる。あれは寂しいだけや」と言った。

 病室に行くと、確かにずっと泣いておられる。お話を聞こうとするが、全く聞き取れない。何かを訴えられるようではあるが判別できない。しかし、注意深く質問をしたりお話のしかたを聞いたりしていると、どうもこちらの言うことは比較的理解されておられる。したがって理解は可能だが発語ができなくなる「非流暢性失語」ということがわかってきた。

 書字能力は残っている場合があるので、字を書いていただくことにした。しかし何を書いているか判別できなかった。時間をかけたが、やはりわからなかった。すると、ちょうどそこに理学療法士の実習中の学生さんが来られた。こういう体勢にすれば書けることがありますよ、と教えてくれた。そこでそうしてみると、なんとはっきり字が書けたのである。そしてこのように書かれた。

 「今一人 みないない」

 あの人は認知症である、と決めつける。脳卒中の感情失禁である、非流暢性失語である、と「診断」する。理解の程度に違いこそあるが、いずれの場合も「わかった」つもりになっている。そして一旦「わかって」しまうと、それ以上のことは見えなくなる。この人は認知症の人だ、感情失禁の人だ、失語症の人だ、という目でしか見られなくなる。私はその「人」を見ているのではなく、自分の「わかった」が作りだした「影像」を見ていた。しかも、それだけではない。

 例えば失語という影像について、言葉が話なせないより話せる方がよい、と考える。あたかも能力が低い方に価値がないように、「影像」の上にさらに固定された「価値」を見ていた。「寂しいだけだ」といった看護師も、当たっているようで同じ問題がある。あの人は「寂しい人だ」という「影像」を作ったに過ぎない。それに加え、寂しがって泣いていることを蔑むような視線があった。「寂しい」のひとことでは言い尽くせない孤独感をずっと一人で抱えておられたことに気づかず、さらにその孤独は私自身の問題でもあることをも忘れているのである。

 追求すればわかるはずだ、という傲慢さが人と人を分断する。自分の智慧の限界を知らされて深いところから出てくる「わからない」という言葉、自分の思惟を超えた事態を認める誠実さが、人と人をつなぐのではないか。そこに苦悩の中を歩ませる力が開かれるのではないか。

[『崇信』二〇一六年八月号(第五四八号)「病と生きる(12)」に掲載]

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