死によって崩れないもの

 研修医だったときのことである。八十歳代半ばで脳梗塞から寝たきりとなった女性だったが、わずかだが食事も摂れるようになり、徐々に回復しているように思われた。しかしある日、看護師が巡回したとき、彼女はすでに心肺停止状態であった。すぐに駆けつけたが、全く手の施しようがなかった。

 ご家族も程なくして到着された。そして不信感を顕わにし、私にこう問うた。「なぜ死んでしまったのか」「なぜせめて家族がくるまで間に合わなかったのか」

 それに対して私は、ご高齢であり長期間寝たきりの患者さんは身体機能が衰えており、いつ急変してもおかしくなかったこと、脳梗塞で嚥下障害があったことから、喀痰により窒息することがあることなど、医学的に考えられる死因の可能性を説明し始めた。また看護師は一人で複数の患者さんをみているから、他の方の病状次第では発見が遅れることがある、それから──、そう説明を続けようとしたその時である。ご家族は思い切り前の机を蹴り上げ、立ち上がってこう言った。「そんなことを聞きたいんじゃない!」

 その後私は何を話し、どうやって部屋を出たのか全くおぼえていない。ただ悲しみとも怒りともつかないご家族の表情だけははっきり目に焼き付いている。それ以来、何を語ればよかったのかと自問自答する。その後も幾度となく同じような場面を経験してきた。そしてやはり医師として医学的な説明をする。その度に「いや、そうじゃない」という声が聞こえてくる。

 祖母を亡くしたとき、往診で来た主治医は、私がしてきた説明のようなことを話した。それを聞いた時、命を助けられなかった言い訳に聞こえたと同時に、後にも先にも二度とない、かけがえのないただ一度きりの祖母の死が、繰り返される単なる生命現象として矮小化されたような気がした。

 人はなぜ死ぬのに生まれてくるのか。人はなぜ別れるのに出会いを求めるのか。この問いには生は祝うべきもの、死は厭うべきものという見方を含むように思われるが、仏教はそんな生と死の対比ではなく、生死と涅槃という対比で人生を語る。そのことは、「他者との別れの悲しみ」という私の生きる意味を根底から崩すほどの深い痛みに、どう向き合うことを語ろうとしているのか。死に面しても悲しみなどないほうがよいというのか。その問いがなければ、仏教を学んだといっても、医学的な説明で突然の死を納得させようとしていた態度と何ら変わることはない。

 西田幾多郎は、藤岡作太郎『国文学史講話』の序文で、わが子の死を次のように述べる。

若きも老いたるも死ぬるは人生の常である、死んだのは我が子ばかりでないと思えば、理においては少しも悲しむべきところはない。しかし人生の常事であっても、悲しいことは悲しい、(中略)人は死んだ者はいかにいっても還らぬから、諦めよ、忘れよという、しかしこれが親にとっては堪え難き苦痛である。(中略)何とかして忘れたくない、何か記念を残してやりたい、せめて我一生だけは思い出してやりたいというのが親の誠である。

 ここには、わが子のいのちの、死によっても崩れない何ものかを見ようとする態度が現れている。悲しみに溺れるのでもなく、悲しみをなかったことにするのでもない。悲しみの中でいのちにどう応えるのか。医学的な態度だけではその問いを共にする機会を逃す。

[『崇信』二〇一八年四月号(第五六八号)「病と生きる(32)」に掲載]