誰しも自分の思いのままに行動したいと思う。しかしその行動が自他を傷つけるとしたらどうだろうか。以前認知症について、自我が崩れるという観点から考察したが、逆に自我が引き起こす問題についても考えてみたい。
認知症と診断されているある女性のことである。掃除のとき、混ぜてはいけない洗剤を混ぜて使っているのを息子さんの奥様が発見。危険であることを指摘したら、「前からこうしていて大丈夫だった」と聞き入れてもらえず、それ以来口をきいてもらえなくなった。
また別の女性は、家のトースターが壊れていると主張。これもまた息子さんの奥様が壊れていないことを確認したが、聞き入れてもらえない。そればかりか、手をトースターにむりやり突っ込まれて電源を入れられ、危うく大やけどしかけた。
これは認知症でなくとも起こりうる。「自分が正しい」という考えに固執すれば、他者の間に隔てを作る。自我への執着が関係性を壊す、という問題である。相手の存在を尊重するといっても、そんな在り方もそのままでよいということなのだろうか。
誰もが個を尊重され、かつ全体として調和した世界を望むというならば、調和を拒む個とはどう調和するか。個が尊重される世界において多様性を認めることが大事であるというならば、多様性を壊すという多様性を認められるか、という問題ともいえる。
このことは、ハンナ・アーレントの『エルサレムのアイヒマン』を思い出させる。ユダヤ人のホロコーストにおける実行責任者であったアイヒマンの裁判に注目していた人々は、彼がユダヤ人に強い憎しみを抱いていたはずであり、凶悪で残忍な人間に違いないと考えていた。それに対してアーレントは、「陳腐な(ありふれた)悪」と表現し、誰もが起こしうることとして結論づけた。そのことを多くの読者は厳しく批判したが、アーレントはアイヒマンの死刑に反対したわけではない。ただその理由を、彼が凶悪な人間だったからではなく、人類の複数性を抹殺することに加担したからだというのである。
「ユダヤ人は誰も悪くない、悪いのはナチスである」といって、絶対的な悪を想定し排除するという姿勢は、ナチスの反ユダヤ主義と同じ構造であり、それこそがナチスが陥った複数性を破壊する構造であるとアーレントは考える。つまり、複数性を破壊する者を絶対悪として、善なる者が善なる立場から糾弾するのではなく、誰もが複数性を破壊し得る者であり、自らも同じ立場に立った上で、自らの在り方を問いつつ批判するのである。
『歎異抄』第十三章の講話のなかで、児玉曉洋先生はこのように述べられている。「人間の善し悪しの考えでいくと、本願を信じても善い行ないができない者は駄目だという。片方では善い行ないをしなければ駄目だというのは自力であって、まだ本願を疑っているのであり、どんな悪いことをしてもたすかるのだという。両方ともが如来の本願の心を人間の思いに翻訳したわけです」(歎異抄に聞く(九十)『崇信』第二三二号)
善を為すことも悪を為すことも自分の思いのままにならないという立場に立ったとき、「調和を拒む個とはどう調和するか」という問うた自分もまた、「自分の思いのままに生きたい」という心で調和を拒む側にいたことに気がつく。しかし、「自分は被害者である」という怒りはそれを見えなくするほどに厄介なものである。
[『崇信』二〇一八年八月号(第五七二号)「病と生きる(36)」に掲載]
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