人間であると信じる

[この記事は『崇信』二〇二三年五月号(第六二九号)「病と生きる(90)」に掲載されたものです]

先月ご紹介したジャズの歌手の患者さんのことである。その後のことはあえて記さなかった。実はその後、家に帰りたいと言うことはほとんど無くなり、全く歌わなかった歌も、ときどき歌ってくださるようになった。わるい状態がよい状態になってよかった、と二項対立的に語らないようにと思い記さなかったが、苦悩の中を前に歩み出されたような姿は、私にとっても励みになる。だから思い直してお伝えすることにした。

しかし、問題が尽きることはない。今度は同じ階の別のかたが、看護師に付き添われ外来に来られた。他の入居者に対して暴言がひどいというのである。たわいない話をしていると穏やかにされている。しかし、それとなく「いまところの居心地はどうですか?親しいかたはおられますか」と尋ねると、目の色が変わり、「みんな私をバカにする」といって声を荒げた。「それはひどい、そんな人がいるなら僕が怒りに行きますよ」と言うと、少し顔が綻んで「ありがとう」とおっしゃった。

ところが、その「バカにする人」の中には、実は先ほどのジャズの歌手のかたも含まれていたのだった。少し複雑な気持ちになったが、看護師によれば、実際はそんな発言はなく、このかたの妄想だという。他にもスタッフの名前を挙げて、○○はだめだ、△△は最低だと散々である。

「病と生きる(61)葛藤に立つ」で記したように、認知症が進行し、日常のなかでいろいろなことができなくなっていく不安の中では、周りがよかれと思って手助けしたことも、本人にとってみれば、自分を奪われるような喪失感や、失敗を責められるような疎外感につながることがある。この方もそうなのかもしれない。

一方で、このようにも言う。「Eさん(仮)はすばらしい。あの人は名医で、助けられています」と。Eさんは医者ではなく看護師なのだが、信頼を置いている人もいるのである。誰からも責められているのではなく、信じられる人もいる。それはいいことにも思えるが、その裏返しで、「この人は信じられない」という強い思いが、このかたを苦しめているようにも見える。Eさんを信じている「根拠」は何か。自分によくしてくれる人かどうかが根拠であれば、それはまた苦しみのもとになるのではないか。苦しみにつながるような「信」と、生きる力になるような「信」があるのではないか。

しかしそれだけでは、このかたの側に苦悩の原因を押しつけるという危惧がある。あるとき、そのEさんが付き添って来られたことがあった。これまでの看護師さんは、いかに私たちは困っているのか、ということをアピールされていた。しかしEさんはそうではなかった。「なんでこんなに暴言が止まらないんでしょうかね」と「何故」と問う人であった。暴言の理由を認知症だと見れば問いは起こらない。「認知症だから」で終わる。しかしEさんは、人間を見るから「何故」という問いが起こったのではないか。Eさんはこのかたのことを、人間であると信じることをやめていなかった。

それは、一人の人間が仏であると信じる、ということにも関係があるのではないか。何か自分にとってよいことを教えてくれるとか、才覚が優れているとか、そういうことであれば、そう信じることが生きる力になかなかならない。同じ人間であり、それも「真の人間である」と信じるから、そのことが、人間性を見失っている我々に、人間でありたいと欲(おも)わせるのではないか。機の深信、法の深信ということも、劣っている、優れているという性質を信じることではなく、人間であると信じる中に成り立つ、人間性を回復させる法と回復しようとする機との関係なのではないか。

先ほどの患者さんは、人からバカにされると言うが、自分でも自分を卑下する発言が多いという。Eさんの心に、よくしてくれる人としてではなく、人間を見る人として触れるかどうか、そして周りが人間を見る人の集まりとなるかどうかが、現状を乗り越える鍵なのかもしれない。