在宅医療の奥に

 「家に帰りたい」多系統萎縮症《たけいとういしゅくしょう》で入院中の方はそう切に訴えられる。家の二階の書斎からの眺めは最高だそうだ。在宅療養にむけて準備を進めているが、かえって症状は進行している。

 慣れ親しんだ家で過ごし、家族に手を握られながら最期を迎える。そんな〝畳の上の大往生〟を理想として、病院を出ても安心して暮らせる医療を整えたいと、京都西陣で地域医療に尽力してこられた早川一光《かずてる》[一九二四~二〇一八]という医師がいる。戦後まだ医療を受けられない人が多かった時代、葵橋《あおいばし》の下でゴザを敷いて子どもの面倒をみているお母さんの顔を見たら、黙って見ていることができなかったと言い、早川先生を知る人は病気ではなく生活を見てこられた先生だと言う。今の在宅医療の先駆けである。昨年九十四歳の生涯を終えられた。

 そんな先生自身が、みずから築いてきた在宅医療の制度で療養する中で、問いかけてきたことがあった。二〇一七年四月一日に放送された、ETV特集「こんなはずじゃなかった 在宅医療 ベッドからの問いかけ」では、在宅医療の制度は整えられつつあるが、大切な何かが置き去りにされているのではないかと問いかける。

 「さみしい。病気をしてから僕の胸を何度もよぎる感情です。心の奥深いところで常に流れているこの寂しさを知ったとき、僕は驚き、動揺した。畳の上の養生は極楽、と在宅療養を語ってきた。けれど畳の上にも天国と地獄、どちらも存在していることを知った」患者さんの電話に出るために枕元にあった携帯電話を握りしめて眠りにつく。今は誰かにかけるために。

 この先生のことを、在宅医療に熱心に取り組んでいる方に話したことある。その方は「そういう人は在宅医療に向いていない、病院の方がいいのだ」と言われた。私は「いくら状況を整えても解決できない孤独ということが、人間にはあるのではないか」と言うと、「あなたは哲学者だからなあ」と言われた。はたして寂しがりの性格とか、考えすぎの哲学者の問題なのだろうか。宮下晴輝先生は講演録『仏教は何を教えるのか』で次のように述べられる。

 ひとりで死んでいかなければならない不安、それはまさしく老病死する身体をもっていのちを生きる衆生の中で、人間だけにある。人間だけがひとりぼっちで死んでいかねばならない不安の中で苦しむのです。このことは人間であるからその苦しみがあると捉えなおすことができます。ですから、私が寂しくなったのは私のせいだと思う必要はありません。

 児玉曉洋先生は次のように述べられる。

「あなたはどういう人であるか」と尋ねると、「私は金持ちである」とか、「私は日本人である」とか(中略)そういう物質的・文化的・社会的条件をもって自分としているのですね。それで端的に「私もあなたも阿弥陀の子」と言えない。「私もあなたも同じ一個の人間だ」と、こう言えない。(中略)つまり「凡夫」としてのあり方から「孤独」とか「対立」、「不安」、「争い」ということが起こってくるのです。(『児玉曉洋選集第一巻』)

 自分以外に信ずるものが何もないという意味において孤独である。そして最期はひとり死んでいかなければならない。孤独とは人間だから起こる問題である。立派な業績を残した医者も、いなかの百姓のお母さんも、小学生の子どもも、みな寂しい。このことが医療現場において、驚くほどに了解されない。だから性格や状況の問題にしてしまう。その結果、早川先生の言う「心の奥深いところで常に流れているこの寂しさ」が置き去りにされてしまう。

 自宅で死にたい、といってもその奥に、何ものかとして満足したいということがある。しかしそれゆえにかえって孤独である。だからそのさらに奥には、そんな人間だからもつ問題を乗り越えた仏陀のように、ほんとうに人間として満足して死んでいきたいという願いがあるのではないか。

[『崇信』二〇二〇年一月号(第五八九号)「病と生きる(50)」に掲載]

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