身体のことば

先月号で、新型コロナウイルスのために病院では面会できないことを取り上げたが、これだけ感染が拡大し、変異により感染力も毒性も増している中では、院内で一人発症することが大勢の死亡につながる事態となる。しかも重症化しても設備の整った病院に転院することもできなくなっており、面会禁止は已むを得ないところである。

そんな中で、さまざまな工夫が試みられている。その一つがオンライン面会である。映像を映し出すタブレット端末を使って面会をする。いわゆるテレビ電話のような形で、お互いに顔が映し出された画面を見ながら会話をする。そんなことをしてどうなのか、と半信半疑に思われる方もあるかもしれないが、このような出来事があった。

ある寝たきりの患者さんがオンライン面会をされた。このところ呼びかけてもほとんど反応が無く、眼を閉じたままであった。オンライン面会の準備が整い、画面を患者さんの前に差し出す。ご家族が話しかけたとき、声に反応して少し眼が開いた。視線がご家族の姿を探す。そして画面に映ったご家族の姿に気がついたそのとき、眼はカッと大きく見開き、さらには、ほとんど動いていなかった右手が、手を振るように動いたのである。スタッフ一同驚き歓声を上げ、ご家族は大喜びであった。オンラインではあるが、身体をもった出会いが生きる力となって手を動かしたようであった。

先月、奥様の手紙で紹介した患者さんは、今度はお孫さんの結婚式にオンラインで出席された。タキシードに身を包み、正装しての参加である。身体が自由に動かないため、着やすいようにタキシードは手作りである。当日拝見できず、後日写真を見せていただいたのだが、たいへん凛々しいお姿であった。病状が進んでいるため準備するだけで身体には大きな負担で、会場と通じた時間にはだいぶお疲れの様子だったとのことであるが、会場におられたかたは、そのお姿を通してさまざまなことを感じ取られたに違いない。声を出して語ることはできないが、その身体が語ることがあったのではないだろうか。

このところオンラインでさまざまな会が行われている。私も医学系の学会から、仏教の学習会、聞法会、オンライン飲み会までさまざまな会に参加する。現地で集えるほうがよいことはもちろんであるが、遠方で参加できない場合や、身体が不自由で動けない場合でも、参加できる機会が開かれるという利点もある。では、聞いている内容は同じであるのに、現地で聞くのと何が違うのだろうか。なんとなくの空気だとか熱量だとか曖昧な表現が浮かぶが、もう少しはっきりしたものがあるように思う。

私自身が感じることは、医学系の学会は現地とオンラインの違いが少ないように思う。それは、「情報」としてのことばを聞いているからなのではないか。そこにどんな身体がそのことばを発したかということを必要としないし、聞く側も思考が働いていればよい。ただ情報が伝わればよいから、演者の顔が映らず、スライドだけが延々と映されていても、現地に行ったのと同じように聞くことができる。しかし、仏教の聞法会の場合、その話の内容は単に情報ではなく、「人間として生きる」ということについての話であり、それは老病死をもった衆生として生きるいのちについての話である。身体のないところに老病死の苦悩はないのであるから、どんな身体を生きる者がどのように語り、それを、老病死する身体をもった私がどう聞くのかという「身体性」がそこに求められるのではないか。

オンラインではカメラを通して、聞法会で語る先生の姿を見ることはできる。しかし親鸞聖人は姿どころか声も聞いたことがない。書かれたものを通して触れるしかない。それにもかかわらず、私に直接語ってくださるかのように感じられるのは、それがただ情報としてのことばなのではなく、老病死の苦悩をもった身体を、確かに生き抜いた人のことばだからではないだろうか。

[『崇信』二〇二一年六月号(第六〇六号)「病と生きる(67)」に掲載]