病室に伺うと、テレビでオリンピックを見ておられた。多系統萎縮症のため寝たきりとなった方である。会話も難しくなってきたが何とか聞き取れる。オリンピックはどうですかと尋ねると、応援していますとおっしゃたが、その返事は懐かしそうでもあり、少しさみしそうでもあった。1964年の東京オリンピックの時には、お祖父さんと一緒に観戦したという。私もスポーツは結構得意だったんですよといわれた。ベッドの上から金メダルの熱狂はどのように映ったのだろうか。
私もスポーツは多少していたし、関心がないわけではない。子どもの頃は本堂でよく父とミニ野球をしたし、小学校の時は地元のサッカークラブに通い、友達と藤井寺球場に近鉄バファローズの試合を見に行ったりもした。学校の部活ではテニスもしていた。スポーツ選手の一所懸命な姿に感動するということは確かにあるだろう。しかしいま、負けた者と勝った者が、同じく懸命に戦った者同士、ともに健闘を称え合うということに感動するよりも、勝つことを最も価値あることとして見て、メダルを取れたかどうかが最優先される。予選落ちした選手は見向きもされず、時には責められ、コロナで出場できなかった選手は忘れ去られる。このように、能力のある者が評価され、能力のない者が劣った存在として扱われるような見方をオリンピックが広めているとすれば、そこには弱い立場に立たされた人を排除するという暴力性が潜んでいるとはいえないだろうか。
そうでなくてもこのオリンピックは、コロナ禍の中、感染拡大を危惧する反対の声を押し切って強行され、その結果爆発的な感染拡大を招いた。先月号で、入院できず亡くなっていった方のことを記したが、そんな深い悲しみの声を無視して、同じ悲しみを経験する人をさらに生み出す世の中にしてしまった。さらには撤回されたとはいえ、中等症を入院させないという信じられない方針が打ち出された。新型コロナは中等症から一気に重症化することがあるといわれているのに、この時期に積極的な治療をしないということは、命を守る気がないということである。多くは軽症で改善するのかもしれないが、数しか見られない為政者には少数の苦悩の声は届かず、勝者を祝う言葉ばかり発している。少数と言えない数に膨れ上がってやっと焦ることになる。「財有るものが訟は、石をもて水に投ぐるが如し。乏しき者の訴は、水をもて石に投ぐるに似たり」(『十七条憲法』聖典九六四頁)石を水に投げ入れた大きな音は聞くが、水を石にかけた小さな音を聞く気はないのである。
オリンピックがこのような性質を帯びているとわかっていなかった私は、1964年のオリンピック開発の一環で建てられた都営霞ヶ関アパートが、今回の東京2020オリンピックで取り壊されていたことに注目できていなかった。ここには高齢の方たち、障害を持った方たちが生活していたのである。それが東京都からの一方的な通達により退去させられ、何十年の間に築かれたコミュニティも破壊された。それが暴力でなくて何であろうか——。
テレビをつけるとたまたまソフトボールの決勝戦であった。打球の行方を追う。キャッチャーフライで試合終了。金メダルである。やった!と心がたかぶり勝利に酔いしれるとは、先のようなことを問題にしておいて、何と私というものは空虚なものかと思い知らされる。
『崇信』7月号で、「慢」とは心のたかぶりであると定義され、七種の慢について『倶舎論』に記されていることを教えていただいた(宮下晴輝「シリーズ—仏教の言葉(93)慢」)。私は優れているというたかぶり、優れた法を証得していないのに私は得たというたかぶり、私は劣っているというたかぶり、などなど。また「驕慢と酔うこと、つまり「物事を正しく見ないこと」(無明・痴)とは初めから結びついている」(『児玉曉洋選集第三巻』二十六頁) と教えられる。心のたかぶりは、見るべきことを見えなくする。仏教はそんな酔いしれた心を覚ますものであって、なおさら酔うことではないだろう。仏陀は覚めたところから、金メダルではなくあのベッドの上に、いのちの輝きをみる。
[『崇信』二〇二一年九月号(第六〇九号)「病と生きる(70)」に掲載]
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